切ない待ち合わせ
明日着ようと思って夜洗濯した衣類が乾いていないことはよくある。
仕方がないので水の滴っているシャツをドライヤーで乾かすが、まあ乾かない。それもそのはずである。現在朝の4時。この服を手もみで洗濯したあと、適当に脱水して干しておいたのは、せいぜい3時間程度にすぎないのだ。
しかし、悠長に洋服を乾かしていると電車は出発してしまう。仕方ない。生乾きの洋服を着て、急いで駅に向かう。どうせこの夏の暑さですぐに乾くか、汗でまた濡れてしまうだろう。
早朝の無人の時間帯、セルフチェックアウトになることは事前に伝えられていた。備え付けの箱に鍵を返すと、ホテルを後にした。
生乾きの服は、外気をより冷たく感じさせる。昨晩眠りについていた信号機は、既に朝の仕事に取り掛かっていた。昨朝よりも薄暗いのは、時間のせいなのか、それとも今思えば、子午線よりも西に来たからだったのだろうか。
新見の駅舎には誰もいない。入って左の券売機で、備後落合までの片道切符を買った。もちろん青春18切符を持っているから購入の必要はない。それでも、消えゆこうとしている駅への到達記念と、なけなしの支援のために、みどりの券売機にクレジットカードを挿入した。
ふたつの切符を持って無人の改札を通り、地下道を通って昨日降りたホームに戻るとあらびっくり。誰もいなかった駅舎とは一転、業者の皆様がすでに列をなしていたのだ。間も無く始発が入線し、ぞろぞろと車両へ乗り込む。数えてみると、その数20人。普段は空気を輸送している過疎路線と聞いていたが、思いもよらぬ数の人々が乗っている。
だが、青春18きっぷの旅行者は、正規の旅客としては計算されない。旅客として正規の料金を支払い、路線の存続に本当の意味で貢献しているのは、きっと私だけ、彼ら彼女らは、実体を伴ってこそいれども、やはり等しく空気なのだろうと思った。
鉄道は田圃と段々畑を臨む。トンネルに入り、そして抜けると、今度は一転、渓流と並走する。どうやらこれは高梁川という川で、昨晩やくもと一部区間を並行して走っていた河川のようだ。昨晩は暗く見えなかった姿を、今日初めて見ることができたというわけだ。
しかし、車両はすぐに高梁川に別れを告げた。列車は左に曲がってゆく。
列車は快速だ。通過する布原駅からは別の川と並走することになったが、あいにくの圏外で、その名前を知ることはできなかったが、少なくともニギハヤミコハクヌシではないということは分かっていた。
備中神代を通過し、伯備線との並走区間を終える。ここから真の芸備線区間。私がこの旅で、至ると決めた場所である。我々が訪れたことを知らせるように信号で吹かれた軽い警笛は、早朝の山間に、短く響いた。
山間に広がる一面の田園風景は、実り始めた稲穂が、緑の海を表していた。海の向こうには、手を伸ばせば届きそうな、それでも届かない――ということを、私はかつての旅の中で学んでいた――山々が広がり、その裾に家々が連なっていた。とても絵になる光景だ。
森に入り、大きな材木工場を抜けると、列車は減速し、坂根駅を通過する。その向こうにはまた緑の海と、空を見下ろす立派な家々。おそらくこの沿線は、この風景を主題として進んでいくのだろう。
そしてこちらも再びの渓流。徐々に列車は、山の奥へ進んでいっているということだ。
田圃にそって、轍がずっと続いている。かつてこの場所を支える希望の轍だった鉄道が、今やお荷物扱い。やるせない気持ちを燃料に、私はとうとうこんな片田舎までやってきてしまった。もちろんそれは、今に始まったことではないが。
矢神の手前のS次カーブは絶景だった。広がる緑の海をくねりながらかき分ける轍、流れる神代川。神秘的な光景に、ついつい目を惹かれてしまう。矢神で停車するが乗降はなし。業者が整理券を余計に取ったのが、特筆する唯一のことだった。
矢神を出たあたりから、景色の向こう、山が霧がかってきた。Googleマップによると今の気温は19度らしい。
それにしても線路の脇から、向こうの山と山の間の向こうまで、ずっと田圃が広がっている。これだけの耕作地を、人口がいないとされる地域で手入れしている人々がいるというのが不思議だ。備中神代産の米とか売ってるのだろうか。
「鯉が窪湿原の街」という看板を通り過ぎると、中国縦貫道の下を潜る。その先のトンネルを抜けると、眼下の山間の集落には霧が落ちていた。目まぐるしく上下する視線は、この場所の激しいアップダウンを証明していた。
福代集落の前では、1人の男の子がこちらに向かって両手を振っていた。運転手が気づいたかまでは意識が及ばなかったが、少なくとも客室内では、旅客はみんな寝ているか、スマホを見ているかで、私以外、それに気づく者はいなかった。
そして東城に到着する。これはかなり拓けた街だ。今までの村落の風味はなく、近代的な建物が多く並んでいた。なんと、ここで1人の乗車があった。新見以来初めての乗客である。
どこで仕入れたか、ひとつ空けて隣に座る壮年の男性がパンを食べはじめた。これは賢い選択だ。私は昼まで何も食べられそうにない。彼の手に握られる、備後落合行きの普通切符は、彼が私以外の乗客であるということを私に知らせていた。
東城を出ると、少しずつ時間が巻き戻り、踏切を越えると、かの原風景があった。だが、緑のトンネルを潜ると、今度は眼下に青葉の色をたたえた川面。少し進むと川面は渓流に表情を変える。25キロ制限の看板のすぐ横には、真新しいロープが張られた落石を見せたのち、芸の細かい渓流は、今度は橋との共演をやってのけた。白鷺が舞い、それは美しい光景であった。
備後八幡に到着。やっぱり、芸備線がええよのぉ!という横断幕が掲げられているが、乗降はない。カーブから見える廃墟は、菅竹小学校跡のようだ。
渓流がまた姿を変える。岩盤と形容したくなる岩が、川の流れを激しくしていた。車両が鬱蒼とした森を、25キロ制限、通称「必殺徐行」で抜ける。すると、だんだんと川に転がる岩岩が、鬼が水切りした後のような光景に変わる。変化、変化の連続に、目が回りそうになる。
今更だが、新見から備後落合に向かう際は、進行方向右側が景色がいいのでおすすめである。左側に陣取ると、あそこの壮年の夫婦のようにこの絶景の中、旅情をくすぐるものに出会えず寝ることになりかねない。いや、始発が早すぎるだけか。必殺徐行は確かに速達性を損ねているが、どうせ地域の足として成り立ってないということにされているわけだから、景観という意味では素晴らしい路線だ。
内名は名高い秘境駅とのことだ。この駅で、なんと1人乗って1人降りた。間違いなくどちらも業者である。いや、うちなー、つまりここを沖縄と間違えた説もないことはないのかもしれない。
体感で、45度ほど傾いた右カーブを徐行で進む。このまま渓流に向かって転けてしまうのではないかと内心思いながらも、我々、進行方向右側の車窓が見える人々は嘆息が尽きない。左側の皆様は暇そうである。
小奴可駅。山間の建物はみな屋根が焦茶色だった。タクシー会社が委託運営をしているこの駅は、まだ営業を始めていないように見えた。ここで切符を買うことができるのも、おそらくもう長くはないはずだ。大きな観音に見送られて道後山へ。どうして線路の脇には大きな観音を建てるのが流行ったのか、あるいは観音が立つ場所に線路を通したのかはわからない。
この辺りから日差しが出てきて、パンおじさんはカーテンを引いた。一方こちらは、2度とこの景色を見ることはない覚悟で車窓を眺めていた。
備後落合手前の最後の駅、道後山。乗降なし。さあ、次は備後落合だ。
ちなみに客層は、7割おじさん、1割おばさんと中高生、そして私が一人である。
道後山を出たのち、列車が減速するたびに備後落合に着いたかと皆身構えるのだが、ここは大きく山を迂回しながら駅に向かうため、なかなか到着しない。垂直に近い斜面に木々が青々と生い茂る様は、さながら緑の滝壺のようだった。
別の川と合流するが、これまでと流れる方向が逆である。つまり、山を越えたということなのか。不思議な川の流れは、我々旅客を備後落合へ誘うようだった。
使われていないことが一目でわかる、錆びた線路がひとつ、ふたつ、車窓に姿を見せる。扇状に広がる路線は、あるところで綺麗に列を整えると、今度は並行に並んだ。
ここが目的の場所、備後落合だった。
ドアが開けられ、みんなで仲良く気動車を降りる。どうせ全員18きっぷだからか、降車時の改札はなかった。
跨線橋などという贅沢なものはない(と思いきや、後述するが、実はあった)わけで、来るはずもない車両に注意しながら、線路を横断する。
駅舎の脇にトイレがあったため、立ち寄ってみる。そのまま簡単に駅舎を見学していると、三次からの列車もやってきた。乗ってきた新見からの列車と、その三次からの列車が、それぞれ6:41に同時に折り返し発車するのを見届けると、駅舎にあった、観光客用の地図を持って散歩に出かけた。
歩こう歩こう私は変人
読者諸君は驚くことだろう。高々2時間、電車に乗っていたという話だけで、こんなにも文章を読まされているということに。
安心してほしい。ここからは散歩の話である。読者諸君においては、ぜひ、となりのトトロを見ながら読まれたい。
駅舎の前からは、目の前を遮る川に沿って鈎字に、通り(何もない)に接続する下り坂があった。まずは坂を降りようとするが、意識せずとも、突き当たりに立派な廃墟が認められる。
これは後にわかったところ、大原旅館という宿であり、かつては文人墨客を世話した名宿だったようだ。今は軒先に謎のショーケース展示があるだけで、ここが一体どんな由緒の建物なのかを知る由もなかった。あるいは、大切な何かを見落としていたのかもしれなかった。
鈎字に道路と共に折れると、川を渡る橋がある。その先は川に沿って国道183号が通る。まさしく山奥の国道、沿線には何もない。
近隣に商店の類は存在しないということは事前に情報を得ていたが、この国道を臨むにあたって、嬉しい誤算があった。橋の向こう、国道沿いの廃墟の前に、コカコーラ社の自動販売機が設置されているのである。
自動販売機すらないという話を聞いていたから、この大層目立つ場所に設置されたのはつい最近ということである。是非とも売り上げに貢献せんと、いろはすを購入した。残念ながら、単価の安い客だった。
少し脱線してしまったが、つまり目の前には左右に国道が伸びていて、どちらに行くかは全くの自由である。手元に目を落とすと、有志が作ったという地図は割合しっかりしていて、コピー紙のようないかにもな同人地図ではなく、しっかりとした印刷所を通したもののようだった。
地図によると、駅を出て、右手、左手、どちらに向かっても、何かがあるということはないようだ。小さな温泉や、ファームのようなものが右手にはあるようだが、あったとすると時間が悪い。忘れているかもしれないが、今は早朝6時なのである。
事前に情報収集した際に付近唯一の食事処として紹介されていた、ドライブインおちあいは左手にあるということで、まずはその情報を確かめるべく、左手に向かうことにした。先に言っておくが、こちらは開いていないどころか営業期間ですらない。
地方道にありがちな人の歩行を考慮していない様子はなく、しっかりと歩道が整備されていた。足元は朝露か、山から滲み出る湧き水かでしっとりと濡れていて、ブロック塀を砕いたような飛石に似た工夫があった。
なんだか顔に触れるものがある。早朝、蜘蛛の子が撒いた糸のようだ。振り払うようにして、前に進む。
右手の山肌が突然拓けて、そこに人家が見えた。しかし軒先には暖簾の代わりに非常に大きなスズメバチの巣がぶら下がっており、その家に人が住んでいないことを物語っていた。(後から知った話だが、地方によってはスズメバチの巣を縁起物として飾る風習があるらしい。これがそうだったのかは定かではないが)
その辺りからは集落のような形で数件の民家が道沿いに建っていたが、やがてそれらも山肌に飲み込まれた。
おそらく先ほど通ってきたと見える鉄道の高架橋を潜ると、山間に工夫して作ったとみられる水田を認めた。
ところでこの辺り、異音がする。蚊や蝿が飛ぶような、しかし大きな音である。
見上げてみると、飛んでいたのはドローンだった。
風景写真の撮影でもしているかと見物していると、ドローンから何か液体が噴霧されていることに気づいた。探してみると、水田の脇に停められた軽トラックの陰で、一人の青年がリモコンを操作していた。驚いた。これが令和の農作業か。ドローンから農薬を散布していたのだろう。時間が止まった場所で、未来の技術を目にしたことに不思議な感覚を覚えながら、すぐそこのドライブインおちあいに向かった。
いかにも平成初期といったドライブインおちあいは、しっかりと夏季休業中である。ここでしか食べられないおでんうどんという食べ物があるということだから、またいつか再訪してみたいと思う。
しかし、こうして休業の看板を立てられてしまうと、あるいはとこしえの休みなのかもしれないという、なんとも言えない寂しさが込み上げてくるのだった。
またね備後落合
備後落合の駅に戻り、改めて駅と対峙する。駅前の小さな空間には先ほどはいなかった数台の車が停まっていて、不届な輩も見物に来ていることを暗に示していた。
次の電車までの時間としては、まだ1時間ほどあっただろうか。ホームや駅舎を一通り見物し終えたというところで駅の外で朝日を浴びていると、駅前の坂を、一人の老翁が登ってきた。彼は私や、同じく時間を持て余す旅人に挨拶をしながら、「このあとガイドをしますから、よかったら聞いてやってください」と行って駅舎に入った。彼こそがかの有名なボランティアガイド、旧国鉄の永橋機関士であった。
永橋機関士の話については、是非とも現地で聞いていただきたいところであるから、割愛する。彼は年間ほとんどの日、駅に出てボランティアをしているということだから、備後落合にたどり着けさえすれば、かなりの確率で話を聞くことができるだろう。
ひとつ、書き記しておくべきこととしては、かつては100人を超える職員が常駐していた大きな駅であり、人や電車が落ち合う駅だったということだった。
かつては跨線橋もあったが、撤去されて久しい。ここへ至る鉄橋も老朽化しており、いつ壊れてもおかしくない。
今あるものが、いつまでもそこにあるとは限らない。
私はこれより木次線に乗り換え、宍道に向かう。山陰線に乗り換えてからのことは、考えていない。タイムリミット(翌日の東京での野球観戦)のことを考えると、大阪か、京都あたりで一泊することになるだろう。
ガイドを聞き終えた人たちが、発車する木次線に乗り込んでいく。ドアが閉まり、永橋機関士だけがホームに残った。私は情報を聞いていたから、車両の後方に向かった。
ゆっくりと車両が加速する。それを認めた永橋機関士が、両手をいっぱいに振ってこちらを見送ってくれた。私がそれに手を振り返しているのを見て、何人かが寄ってきた。加速に合わせて、永橋機関士の姿が小さくなっていく。
彼の大きな別れの挨拶は、夏の光に照らされる木々の緑にその姿が隠れるまで、終わることはなかった。
木次線の旅が始まった。
もっとつながる木次線
後ろ髪引かれる思いで備後落合を後にした私は、山陰に向かうために木次線へと乗車した。山の上から再び海へと向かって下っていく。
油木駅の手前には菜の花畑が散見された。これがその名の由来かもしれないと思った。
三井野原スキー場のリフトが見える。スキーはもうやっていないのか、廃屋や大きな土地が、悪目立ちをしていた。しかし、後から調べたところ、今でも健在のスキー場のようだった。
谷底から支えられた、大きな、大きな赤い橋が遠くに見えた。夏の濃い緑の中、ぽっかりと空いた空洞に、補色の橋はよく映えた。
木次線最大の名所はこれだろう。三段式のスイッチバックだ。鉄道は急勾配を登る際、傾斜をカーブしながら登っていく。
しかし、あまりにも傾斜が急すぎる場合はスイッチバックという技術を使い、九十九折りの線路を登って高さを稼ぐのだ。
箱根登山鉄道のものが有名だが、幼い頃に一度見たきり、それも当時は意味がよくわかっていなかった。スイッチバック初体験と言っても過言ではなかった。
折り返し場所に到着するたび、運転士が前へ後ろへと移動する。それに合わせて客も前へ後ろへついて回った。私はずっとうしろにいて、列車が前に、後ろに動く様を眺めていた。
八川駅でひとり、乗車があった。備後落合で乗車してきたのは16人だった。
ところで、iPhoneの充電が心許なくなってきた。まだ真昼間だが、確かに今朝は、太陽より早く街に出てきていた。宍道では、充電の手段も探さなければなるまい。
出雲横田はクシナダ姫の生誕地となっているらしく、それを伝える看板と絵があった。7分間停車の案内を受けて、少し駅舎を見学した。キャリーケースを転がし、そのまま下車した人も散見された。
亀嵩駅で多くの人が下車した。見ると、駅舎に蕎麦屋が入っている。この場所の名物なのかもしれない。
備後落合のスカスカの時刻表からは信じられなかったが、この辺りまでくると、それなりに電車があるらしい。そのことも、この場所での下車に一役買っているようだ。
木次駅 人々の呼吸
車両は木次駅に入線する。長い長い停車時間の後、この車両は引き続き宍道まで我々を乗せていく。
木次は、「きすき」と読むため、「好き」にかけた言葉遊びが盛んなようだった。誰かとのデートに使ってよさそうなパネルや、「木♡」と書かれたパネル。これできすきと読ませるらしい。
駅前にはロータリーと、テナントがいくつか入った文化会館があった。未到の地、備後落合の次の下車駅がここである。田舎は、大層都会に見えた。
木次線は、このときちょうどデジタルスタンプラリーが開催されており、車内や駅に、デジタルスタンプが貼り出されていた。
いくつか集めれば景品が当たるチャンスがあったが、結論、この木次駅でのデジタルスタンプを忘れた分、応募資格に届かなかった。
列車はそんな忘れ物には気付かず、再び走行を始めた。
ここからは電池残量との戦いだった。列車に乗っている間は窓外の景色を眺めるだけなので差し障りはないが、いざ下車したとき、私は「盲」の状態で街を彷徨うことになる。時間の制約がなければそれもまた一興だが、残念ながらこの先の乗り継ぎは、一本の余裕もない。新見の始発電車から、乗る列車全てが終電だった。
田んぼには烏避けの鳥ダミーが舞っていた。風に揺れるその様は、こちらに手を振る子供のようだった。早稲というのか、すでに黄色く色づいた稲が多く見られた。
向こうには、のっそり歩く、牛がいた。
出雲大東駅には腕木信号のようなものが残っていて、この場所への人の往来を感じさせた。古典的な機械は、操作する人を前提とするからだ。あるいはここは、電子制御の機械が溢れる東京よりも、栄えている場所なのかもしれない。
岩熊城の跡に遺構は認められなかったが、幡屋駅の掲示板には指名手配犯のポスターが貼られていたが、指名手配が解除された張り紙が重ねられていた。この街を流れる時間が止まらぬよう、誰かがネジを回している証拠だった。
加茂中駅の風景は、幼いときに見た、トトロの街並みを彷彿とさせた。高校生くらいか、私服の女の子が一人、乗り込んでくる。
藁葺き屋根の家、藪に埋もれた踏切。この場所での青春に、思いを馳せる。
私はやはり、恵まれた社会の中で、つまらない日常を過ごしている。
宍道駅 海を求めて
宍道駅を降り、宍道湖へ全力で歩いたのは決して旅情が理由ではなかった。一本道をまっすぐに進んだところにセブンイレブンがあるということが、スマートフォンで見た最後の情報だった。
宍道湖の目の前という最高のロケーションに一瞥をくれると、私はすぐさまセブンイレブンに飛び込んだ。決していい気分ではない。
コンビニには当たり前となった、チャージスポットの設置がないことに絶望する暇などなく、乾電池式充電器を購入した。
イートインスペースを借り、20%程度愛機の充電を回復させてから、宍道湖とはいかほどかと店を出た。
山陰を訪れるのは初めての経験で、名前ほどにその実を知らない。宍道湖がしじみの産地ということは、帰京後しばらくして知った。
そんな事も知らない私は、ひとしきり湖の広さを眺めると、満足して来た道を引き返すことにした。乗り継ぎの時間はしばらくあったが、食事のあてがなかった。
時刻はすでに、正午を過ぎていた。
道沿いに、くじら軒という看板が見えた。食事ができるかと期待したが、あいにくこの日は予約のみの取り扱いだったようだ。唐揚げの文字が見えたから、ひとつ名物だったのかもしれない。
宍道湖には鯨はいないだろうと思いながら、道をさらに戻った。
結局だが、他にめぼしい飲食店も見当たらず、宍道駅まで戻ってきてしまった。