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【連載】ひとよひとよにひとみごろ 1

仕事柄、他人の書く文章を読む機会は多い。

あ、いや、履歴書の話である。当サイトに掲載されている文章は、必要に応じたニートが内容を見ている。私は「いいな」と思いながら、その文章を眺めているだけだ。

文章力だけで他人を測ることはどこまでもナンセンスだと思う一方で、やはり日本で義務教育を終えたけれど日本語を履修し忘れたらしい人間は一定数いて、その手の人間はなかなか仕事ができないことも多い。

大学で多少言語学関係をかじったが、やはり人間は、「母語で思考する」。

母語というのは、自己と外界を媒介とするものであるからして、母語の理解が不十分な人間は、やはり外界の情報をうまく受け入れることができないことが多いし、自己を外界に投影することも、上手ではないことが多い。

だから、外国語を学ばせようとするならまずは母語を学ばなければならない。一部の天才を除けば、母語のレベル以上に外国語が上達するということはまずないと言って差し支えないだろう。

その分、音楽など、別の方法が伸びるということもないことはないが。

と、この議論をしていると本旨に入れないので、割愛する。

とにかく、履歴書の書き方がまずい人間は、そもそもの日本語力を上げなければいけないというのは自明の理だが、今は便利な世の中だ。履歴書に書くための例文なんてものはいくらでも転がっていて、その文章を書いたのが本当にその人間なのか、見極めることも難しい。私は採用事務の範疇でしか履歴書を見ることはないが、回ってくる履歴書の、『見る場所』が人によって違うのだということは、こういう立場になるとよくわかる。

ちなみに私が採用されたときに私が採用を担当していたとすれば、私自身も書類選考で落としている。全くもってひどい履歴書を書いたものだと思う。

文章力を上げるには、何をすればいいのか。

思えばもう15年近く、その答えを追い求めていることになる。

至った答えは、「とにかく数を書くこと」。しかして両手から少し零れるくらいの習作を書き続けてきたわけだが、追い求めた領域にはまだ至ることができていない。

そうして最近始めたことが、「とにかく数を読むこと」。自分の中にあるアイディア、表現力や語彙には限界がある。であれば、外から取り入れてしまおうという話だ。

だがしかし、なかなかどうしてそれだけでもダメで、今日もこうして、スターバックスで6時間粘っても、書き連ねることができたのは、3000字程度。

昼にレジに行ったとき、「今日は休みですか?」と聞いてきたバリスタは、それが2杯目だったということには気付いていないのだろうと思った。

先週、少し短めの作品を一本書き上げた。まだ完全に脱稿はしてないが、色々調べてみると、大体3ヶ月くらいを費やした計算だ。

個人的には筆が遅すぎると感じている。それこそ10年前は――質の担保こそなかったが――1日もあれば、3000字は通過点。5000字くらいは簡単に書けたものだった。

今はその分質が担保されていると言えば聞こえがいいが、それでもまだまだ、至るべき場所には至ることができていないことは、前述の通りだ。

どうすれば文章力が上がるのか……。

執筆というものは本当にふざけたもので、書けば書くほど深みに嵌っていく。

「こういう表現をしたい」「この心情を伝えたい」……

こういう無駄な思考が、元々は美しかった文章を台無しにしてしまうことは多々ある。

だからまあ、技術的なところで言うのであれば、句点(。)を使うことによって、「言いたいこと」を小さな文で構築することは有効だと思う。大体文章が読みづらい人は、「、」「,」で文章を長くした挙句、1つの文の中に、3つくらいの主張が入っていたりする。闇鍋だって食べることを憚るだろうに、そんなキメラを自ら合成するのはいかがなものかと思う。

「本当に言いたかったこと、どこ行った?」である。

一方で、君のようなカンのいいガキは嫌いではないことは書き添えておこう。

と、非実用的な話は置いておき、やっぱりこれはあるな、と思ったのは、「覚悟」だ。

文章を大衆にひけらかす機会というのは、まずない。

文章を書くと言っても、不特定多数に対して、ということは少ないと思う。学校のレポート、テストの記述問題、SNS……あとは役所の申請書とか。外に対して自分の文章を発表する機会は、特定の人間に対して。クローズドな範囲の中で終結することが多い。

※だから、「とりあえず文意が通じればいい」という意識の元で、「なんかそれっぽい」「ただただ感情的に」「誤った日本語で読者に訴えかける」「凝った」文章が書かれ、SNS上ではみんなが何もかもを「辞めて」しまうのだと思う。君たちは何かを辞すのだろうか。いいや、ただ「止める」だけのはずだ。と、小言を言い始めれば枚挙に暇がないし、私自身も日本語を勉強中の身なので、ここでは控える。可能な限り好意的に言うのであれば、その文章を書きあげた感情だけは、間違いのないものなのだろうから。

そういうことからも、人の書く文章が変わるときというのは、その文章が誰かに見られている、ということを、本当の意味で自覚したときなんだろうと思うわけだ。

先ほども述べたが、文章をただ書くことは、別に大したことはない。

適当に単語を並べ、誤字脱字なんて気にせず、自分にだけわかる言語で綴ればよいわけだ。

けれどもそれを他人に見せるとなると、我々は自分の脳内の意図と、その他者とのギャップを埋めるという作業を加えることが必要になる。

誤解を与えない文章。それでも、本当に伝えたいことを曲げずに書く。

その単語を、表現を使えば、万人が自らの意図どおりに文章を読み解くことができるのか。たとえ誤解されてでも、曲げたくない表現があるとしたら。

色々なことを考える。

例えばこの世で最も誤解されていることのひとつといえば、ダーウィンの進化論だと思う。

「進化論」

なんてことだ。とんでもない訳文をしてくれたものだ。

ポケモンでおなじみの「進化」。

こういう書き方をすると、「新しく、生存に有利な形質を獲得すること」が「進化」のように感じられる。ポケモンのアレを見ても、きっと世の中の99%の人がそう思っているんだろうと思う。

その考え方はヨーロッパでも広がり、とある考え方に繋がった。「社会ダーウィニズム」。今から大体、100年くらい前の話だ。

さて、君はカンのいいガキかな?

ちなみに、ダーウィンの言うところの進化は、「たまたま発生した変異のうち、運よくその場所で生き延びることができたものが種を繋ぐ」こと。つまり、必ずしも優れた形質である必要はなかったわけだ。

しかし、大体の人はこう理解している。

「キリンは高所にある餌をとるため、首が長い個体へと進化した」

逆だということが、おわかりいただけるだろうか。

「かつてはキリンにもいろいろな形質を持った個体がいたわけだが、たまたま首が長い個体がいて、高所にあった餌を食べられたので、その系譜が生き残った」

これがダーウィンの意図に近い、進化論の理解だ。

そう。誤解を与える表現かもしれないが、ダーウィンの進化論は、ダーウィン以前の進化論と意図的に誤読され、混同され、キメラとなり、こういう考え方を世界中に振りまくに至った。

「何事も、進化し優れたものが、過去の劣ったものを淘汰していく」

この誤解は人種差別のバイブルとなり、間を全部すっ飛ばして言えば、その終着点にあったもののひとつが、ホロコーストだった。

とまあ、ひとつの「意図的に生み出された」誤解は、世界も、時代も超え、挙句の果てには数えきれないほどの尊い命を奪うに至った。

勿論それは、政治的な殺意に持ち出された「兵器」であった側面があるということも忘れてはいけないわけだが。

話を戻そう。

それは誇大な話だとしても、文章を世の中に出すということは、それだけの覚悟が必要なことなのだ。

だからこそ、

「自分の文章が、それだけの読者の目に耐えうるのか」

その心配や、不安が付きまとった状況では、いい文章なんてものは書けないのだと思う。

そういうことを、最近感じた。

その逆――つまり、いい文章を書く方法――は、まだ見当が付かないが。

それだけだ。

きっとこの文章も、最後までは読まれていないだろう。

ここまで読まれたとして、鼻で笑われているのだろう。

物書きというのは、全くもって難儀な商売である。


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