旅行記の動画を作ろうと思って大量に撮った素材。いつまでも作ることなく、iPhoneの容量だけが圧迫されている。
すべからく、やらねばならぬと思うほど、意思は遠のき時のまにまに。
つまらない短歌など詠んでいる場合ではないのである。
待てども待てどもやる気は出ないし、とりあえず文章にしてみよう。それが私のやり方でもあることは、御贔屓衆には言うまでもないだろう。
何はなくとも伊勢には詣る
横浜シティバスターミナルの一角。待合所に併設されたスターバックスを追い出された私の手には、新横浜駅のスターバックスで購入した、冷め切ったドリップコーヒーがあった。
私が追い出されたのは、この店で商品を買っていないにも関わらず、素知らぬ顔でパソコンを広げていたからではなく、単に閉店の時間が来たからである。
YCATの待合所は、謙遜でもお世辞でもなく小さい。10分ごとにバスを捌けども捌けども、新たなお客がやってくる。大きなキャリーケースを転がす人々が立ち並び、自らが乗る、おかしな名前のバスの到着に耳を澄ませる。
目を閉じれば目的地というわけにはいかない。
夜行バスとはなかなか過酷な乗り物であり、隣席、空調、腰痛、エコノミー症候群、対処すべきものはいくらでもある。
松阪行きのバスが来た。
搭乗口で、「名前は」と問うた運転手に名字を告げると、男は語気強く、再び「名前は?」と問う。手には予約票を写したiPhoneがある。目に物見せてやろうかと思ったが、私は改めてフルネームを告げた。向こうが手に持つボードに何かを書き込むのを横目に、さっさとバスに乗り込んだ。これ以上気分を害さずとも、座席は予約時に割り当てを知っていた。彼は何かを言ったかもしれないが、こちらの耳には届かなかった。
バスの車内は概ね平穏だった。
生憎通路側の席には先客がいたが、小さく声をかけるのみ、飛び起きて道を譲ってくれた。その青年の前のオヤジは、休憩に出るときもリクライニングを全部倒していく阿呆ではあったが、あとは乗務員が15分の休憩時間のところ、時刻表示を間違えて、75分の休憩時間を提示したことくらいだった。
幸い、意を汲み損ねたのはカップル一組だけで、そのカップルも、15分を少しすぎたところで戻ってはきたから、運行に大きな支障はなかった。ことによっては大惨事である。
松阪に着いたのは翌る日の6時である。バスはこのまま伊勢へと向かうらしいが、私は鉄路に乗り換えることにしていた。
時刻表や乗換案内に目を通すが、目的の特急が来るまで3時間ある。それならと近鉄の切符を買うと、お伊勢参りへ向かうことにした。
伊勢市駅から外宮へと歩く道すがら、松阪駅で乗り捨てた夜行バスが、回送表示で目の前を通った。
早朝の伊勢神宮外宮は、思いのほか混んでいる。一通り詣ろうと思ってはいたが、参拝の列に並んでいたら、松阪に戻る時間が遅くなる。境内を一周し、空いているお宮に賽銭をして回る。明らかに間違った参拝方法である自覚はあったが、背に腹はかえられない。
一日の始まりにこの場所を選んだ人々とすれ違い、伊勢市駅まで戻る。
赤福の店には、まだ暖簾は出ていなかった。
伊勢詣りの既成事実を手にして向かうのは”三冠詣り”だ。
松阪駅まで戻ってくると、窓口で今夜の切符を受け取るついでに、特急南紀の席を取った。伊勢まで出向いて時間を潰してきた割には、随分と待たされる羽目になった。
伊勢の南に聳える山々、流れる清流に合わせるように、特急南紀は海を目指した。
新宮まで海側の窓席を確保していたが、見えるのは山か木々かトンネルの闇である。隣を流れる川が本当に海へと注いでいるのか、いささか怪しいところだ。
打ち棄てられたような駅を、特急は次々と通過していく。街が、人の営みが消える。その最後の瞬間を見せつけられているかのようだった。
志摩半島の根元を横切り、列車は大きくカーブするトンネルに入った。円を描くように敷かれた鉄路を、列車は従順に走る。
真っ暗なトンネルの中での悠久に思える時間の後、窓から一筋の光が差し込んだ。
大鯨や 想いよ届け くじらぐも
思えば、ずっと海に抱かれて生きてきた。
神奈川県は言わずと知れた開港の地である。横浜や、木場や台場にもよく出かけた。伊豆に親戚もあり、物心つく前から、潮騒は身近に、それでいて憧れを失わせないほどに、手の届かない場所にあった。
私と入れ替わりでこの世を去った曽祖父は、戦火を太平洋上で過ごした。もとより海軍史に興味はあった。大学生になった私は、1ヶ月に及ぶ太平洋の旅を通じて、祖父が幼い頃に訳も分からず口にしていたという「父ちゃん南方パラオ」の意味を知ることになる。メラネシアを経由したのち、珊瑚海からパラオに至る海路は、75年前に曽祖父が辿った道だった。
何物の存在も許さない、太平洋のあの表情を。
奇跡としか言いようがない、曽祖父と同じ航路を辿った運命を。
私は生涯忘れることはないだろう。
珊瑚海の真ん中で、私はずっと空を見上げていた。
美しい海の上に浮かぶ空の中には、零戦も、ヘルキャットの姿もなかった。
鏡面を思わせるベタ凪の中に、我々の船だけが浮かんでいた。
はじめに車窓に映ったのはリアス式海岸だった。
壮大な海景を期待していたこちらとしては、少し肩を透かされたような感があった。
しかし、円を描くような海岸線は美しく、深みのある青色は、砂浜の白を飲み込んで、くっきりと海の存在を浮かび上がらせていた。
山を越えるたび、新たな海岸が姿を見せる。
白浜。民家。漁村。田畑。
そして、海が開けた。
熊野川を渡る橋脚の上。末広がりに川下へ流れる向こうに、建設中らしい綺麗な橋が架かっていた。そしてその橋に載せられたように、綿雲がずっと続いていく。
飛び込んでくるような空と海を、感受できるのはものの数秒だった。
あっという間に特急は橋を渡りきり、新宮駅へのカーブへ入った。
新宮で普通電車に乗り換え、さらに鉄路を進む。普通電車はロングシートだったが、乗客はまばらで、その輸送力を持て余していた。はじめ、何も考えずに海側座席に座ったが、列車が走り出してすぐ、思い直して山側に移動した。
ややあって、それが正解だったことを噛み締めた。
誰も座っていない向かいの席の向こう。大きな窓はスクリーンとなって、画面いっぱいに海と空を写した。
美しい青に向かって伸びる、海岸線の緑が生えた。
紀伊勝浦を通過すると、まもなく目的地、太地である。
山肌に乗せるように設置された駅は、自然高架駅となる。単線のホームから地上の駅舎へと下る階段はトンネルになっていて、壁面には海中の世界が一面に描かれていた。
降車はそれなりにあり、五、六名の高校生くらいの若者(私は彼らを「愉快な仲間たち」と、呼んだ。)もいた。
列車の到着に合わせ、深い青色のミニバスが駅前へとやってくる。
バスは無料の町内循環バスで、列車を降りた客は例外なくこのミニバスに乗り込んだ。
くじら博物館を通り過ぎる。ご丁寧に博物館まで設置されているということは、鯨に何がしかの由緒がある街なのだろう。愉快な仲間たちは、ここへ遊びにきたようだった。
港を抜け、役所を抜け、バスはループするように小高い丘を登り、ついに私は梶取崎にて下車した。
目的地はここから少し歩いた場所で、他に下車した2名ほどが同業者のようだった。
2人は未到の秘境に辿々しくも次の道を急いだようだった。
海の音が小さく聞こえる。灯台のある岬は小さな公園のようになっていたが、だだっ広い芝生に、人が1人。何かないものかと辺りを見回すと、公園の端、気を抜くと見落としてしまうような木立の影に、大きな鯨の姿があった。舞台のような台座の上、宙を泳ぐように模られた鯨を支える碑には、「くじら供養碑」の文字があった。
ああそうか、と思った。
先程通ってきたくじら博物館に、この供養碑。
ここは鯨の墓場、捕鯨場なのだ。
灯台の足元から、海を眺める。
時刻は昼時。崖下から扇状に広がる紺青色の海に陽の光が降り注ぎ、反射する光は海面をスポットライトのように浮き上がらせる。
しばらくの間、乱反射する水面の光を眺めていた。鯨の姿を探したのは言うまでもない。水平線に小さく見える、コンテナ船の船影以外に、この海上に存在を許されたものはないようだった。その存在を許しているものこそが、鯨なのかもしれなかった。
海にはこちらを引き込む不思議な力があるが、海ばかり見てもいられない。もう少しという思いを断ち切って、もと来た道に戻ることにした。
ふっと振り返ると、空が飛び込んでくる。
木立の影の鯨が見上げる先に、大きな浮雲が、ゆったりと天色の中を漂っていた。
「くじらぐも」
小学一年生で触れる物語がいかに優れたものかというものを、俳諧サークル仲間であるないたー氏から聞いたことを思い出しながら、咄嗟に飛び出た言葉をつなげる。
「大鯨の向こうに浮かぶくじら雲」
一度風景を写真に切り取ってから、目の前の光景を推敲した。
「大鯨へ想いよ届けくじら雲」
なんだか傲慢である。
鯨を屠っているのは人間の側だ。殺した側が碑を建てて弔っているのを鯨に伝えたところで、肝心の鯨の側がどう思っているかわからない。再び推敲する。
「大鯨や想いよ届けくじら雲」
うん、なかなかいい気がする。何がいいのかはよくわからない。何かがいいのだ。素人作句などはそれくらいがいいのである。夏井いつき女史に一喝されるのは、その道をゆく諸氏にお任せする。
こうして一度は俳諧サークルに流した一句に、訂正の印をつけた。
この一句が後々私の人生に大きな転機を与えることとなるのだが、それはまた別のお話。
先を急ごう。私は人に会いにきたのだ。
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