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自由律連歌~月が綺麗ですね~

見上げればそこにある月。

太陽の光がなければ存在の叶わない他責的な存在である月を、数千年の昔から人々は見上げ続けてきた。

「I love you.」を訳したのは誰なのかという議論については枚挙にいとまがないが、「月が綺麗だ」と言葉をかけられると、自然人々はその意味に思いを馳せてしまうものである。

月夜の底で漱石は、何を思って空を見上げたのだろう。

古典的言葉遊びでいうのなら、連歌(付合)の発句ともとれる「月が綺麗」という呼びかけに、今夜この場を借りて我々も、一緒に月を見上げ、応えてみよう。

月を見上げて歌を詠む

星が隠れていますね

と、詠み返す。

野辺山の夜を満たす星。月がそこにあったかは定かではないが、雨上がり、道もまだ乾かないうちに、雨が清めた透き通った空気の隔てる向こうには、教科書通りの「満天の星」。言葉が使い古されて陳腐に聞こえるのは、それがあまりにも象徴的な切り取りであることの裏返しでもある。

寂れた温泉の湯上り、町ただ一つの飲食店へ食事に歩く八ヶ岳、落ちてくるような満天の星を頭上に、月の輝きに何を託すか。

都会の空は暗く、都市に生きる、豊かであっても疲れ切った人々を映す鏡のようだ。

真っ暗に見える夜空の向こうにも、実は数えきれない星々が瞬いている。

世界の可能性を狭めているのは、なにかを求め、それを手に入れてきた人間自身だと言えるのかもしれない。

「月が綺麗と零したあなたの輝きに、私はかき消されてしまうようだ」という卑下と同時に心の底からの憧れ、そして仄暗い月明かりに照らされる横顔が浮かび上がるようである。

模様までよく見えます

と、詠み返す。

月に兎が住み着いたのはいつからか。

僕らが生まれてくるずっとずっと前に月に行ったアポロ11号は、残念ながら、兎と遭遇することはなかったようである。

月見の時期のCMには、今でもしばしば兎が仕事を果たしていることもあるが、月見といえば卵であるのに、兎の仕事は大概餅つきだ。

遠くから月を眺める(しか手段はない)。

視力によって個人差はあれども、ぼんやり光の輪の中に、星の起伏が生み出す模様を認める。月の裏側に何が描かれているのか。まさか兎の後ろ姿ではないだろう。

意味などないその輪郭に、あえて意味を見出す。何かを意味づけるということは、観察者に与えられた最も難しい問題であり、喜ばしい自由でもある。

「あなたの言葉の裏側まで、私の目には映っています」

果たしてそれは、愛か、憎か。

言葉。声色。表情。仕草。佇まい。

果たして月を憂う彼の言葉は、緊張に震えていたのだろうか。

そんな彼の初々しさに、挑発的に言葉を返したのか。不敵な笑みが、目に浮かぶ。

写真に写したいですね。

と、詠み返す。

映像の世紀に入っても、写真の持つ力は衰えない。

切り取られた一瞬の時間は、永遠にその輝きを損なわない。

人の知覚には限界がある。視力が衰えれば、見える景色は変わる。伝える言葉も、景色を歪める。

だが、写真が万能かといわれると必ずしもそうではないのは、映像の世紀がすでにそれを証明している。

動画という存在の出現。だが、本質的な問題はまた違う。

技術の粋を集めたレンズでさえ、人間の眼にその性能は到底及ばない。

皮肉なものであるが、衰えないことが取柄である機械は、衰えることが弱点である肉眼を上回ることができないのである。

夜の星空。真ん中に浮かぶ月の姿を見て、思わずそれを切り取らんとする。

手に持つのはカメラか、スマートフォンか。

レンズ越しの月は、その輝きにぼやけて、求めていた形を失う。何度試しても、結果は同じだ。

あるいは動画か、絵を描くのか。切り取るための”ハサミ”を変えても、結果はきっと変わらないだろう。

「この時間を切り取って、大事にしまっておきたいです」

独占欲は隠さない。心の動きに正直に、相手の言葉を噛みしめる。

明日からまた欠けるんですね。

と、詠み返す。

月は満ち、そして欠ける。

有史以前から繰り返されてきたその摂理にのっとって、悲しくそう呟く者もあるかもしれない。

発句の意図を察することができるのであれば、こう考えるのも無理はない。

愛を言葉にできるのは、誰にでもできることではない(才能かもです)。

頭上に輝く月のように、愛は今満ち、そして今この瞬間から欠けていく。

月は欠けてもまた満ちる。果たして愛は、また満ちるのか。

月をぢっと見続けていれば、その答えは自ずと導かれるのかもしれない。

「燃え上がるような関係は、きっとここまでなのですね」

ここまで至った喜びと、これから迎える憂いを確信し、伏せた秋波は哀愁に変わる。

明日からまた満ちるんですね。

と、詠み返す。

あるいはまさか新月を見て、「月が綺麗」と言う者もあるかもしれない。

であればこそ。

美しいものは、必ずしも”完璧”である必要はないのだ。

不完全な人間らしさの中に、美しさは宿るものである。

そんな”欠如”を満たすことのできる喜びは、画家が白紙のキャンパスに、作家がまっさらな原稿用紙に相対する喜びに似たものがあるのかもしれない。

満ちゆく時を待つ新月に、あなたならどんな思いを託すだろうか。

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