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拝啓、板の上の理想郷へ。

私は役者ではない。

劇団に属していたこともなければ、(大学の知人に誘われるがまま取った2単位以外は、)演劇について特別な勉強をしたこともない。

しかしどうした縁か、少なくない役者の方との交流があって、そのうちのひとつは今でも健在だ。

正直、公演の度に送られてくる、コピーペーストの長文営業ラインは鬱陶しくもあるが、私が彼との交流を止めないのには、もちろん理由がある。

その理由を細かく掘り下げることはできない。なんてことはない。「それがなぜなのか」私自身が理解しきれていないからだ。

彼の出演する舞台を見るのは、恐らく三度目か、四度目くらいだと思う。

ところで本来であれば、鑑賞した舞台の宣伝を、ハッシュタグ付きで華々しくしたいところではあるのだが、腐ってもWebメディアという当サイトの形式上、この場では宣伝は控えさせていただく。

非常に面白い舞台だったことは、この後綴る文章に誓って間違いはない。ただ少しだけ、個人的に付き合いのある役者に、この場所を知られることが恥ずかしいだけだ。どうかご容赦いただきたい。

学生時代の知人がこれまた役者を志していて――彼は今、声優として立派に活動をしているらしい――、以前から演劇というものにはそれなりに触れていた。

それでもやはり、彼らの演じる劇には衝撃を受けた。

舞台から聞こえてくるのは、演者たちの魂の声だった。

それは決して、声量だけの問題ではない。彼らは確かに、人生をかけて、舞台という板の上に立っている。そのことが確かに、間違いなく伝わってくるのである。

客席で見ることができるのは、一つのシナリオだけでなく、板の上に立つすべての人間の人生だ。

これは語弊のある言い方かもしれないが、どんなにつまらなさそうなあらすじやあおりでも、いざ観客としてそれを目の当たりにしたとき、「この舞台を見に来てよかった」と思う。全くもって不思議なものである。私は剣と魔法とファンタジーが好きではないのに!

そんな知人との交流があると、自然とその世界に生きる人々の人生を垣間見ることがある。

今回の観劇で、一つの単語が私の中で像を結んだ。それは以前鑑賞した劇の中でもつぶさに出てきた言葉であって、交流の中で垣間見た、彼らの気質を表しているものでもあると思った。

『友達』

彼らには、独特のネットワークがある。下北沢のとある店では、大体自己紹介があった。彼らは大体知り合いの知り合いだから、そのこと自体は頷ける。

そしてなぜか、何の縁もゆかりもない私も、「俺の知り合いだ」と、勝手に紹介されて回る。生後間もないとき、親族の法事で参列諸兄に抱かれて回り、行方不明になったことがあるというエピソードが想起される。

劇の中で台詞があった。

「一度手にしたものは捨てられなくなる。だから、手にする前に考える。それが本当に必要なものなのかを。人間関係も同じだ」

ああ、その通りだと思った。

私は人が、人を簡単に友達にしすぎると考えているからだ。

あなたの友達のうち、10年後も変わらず交流があるのは何人だろうか?

あなたの友達は、無条件であなたの窮地を救ってくれるだろうか?

逆に言えばこうだ。

10年前の友達のうち、今でも懇意にしているのはどれくらいだろうか?

あなたは無条件で、友達の窮地を救えるだろうか?

ほら、友達なんてこの世にはいないだろう?

いたとしても、きっと片手で数えられるほどまでふるい落とされるはずだ。

けれど。けれどだ。

いろんな劇を見ていると、皆口裏を合わせたようにこう言う。

「私たちはもう、友達だ」

「一度言葉を交わしたなら、それはもう友達だ」

「あなたは私の、初めての友達だ」

ああ、これだ。

私はあの不思議な感覚を思い出した。見ず知らず、たいして会話を交わすわけでもなく、そしてもう一生会うことのない人々に紹介され、無理やりその輪に入れさせられる感覚。彼らの前にあるのは、こういう世界なのだ。

彼らはニセモノだ。

ひとたび舞台を下りれば、今まで演じていた役柄を捨て、自分に戻る。役の全てが自分であるということは、きっとあり得ない事だろう。そんなニセモノが、友情を、形のない美を声高に叫ぶ。一体、何のために?

別に答えなんてなくたっていいと思う。それが人生。それが演劇なのだから。

それでも私はこう思う。

形のない正解を追い求める演劇だからこそ、形のない美しさを、友情を追い求めるのではないかと。

この世は醜い。どこまでも醜い。

創作は、そんな醜い世界に対しての、人間の最後の抗いの手段でもあると思う。

だからこそ、彼らの言葉は劇場に力強く響き渡り、観るものの心に直接語り掛ける。

もしかしたら彼らの演劇は粗く、識者に言わせれば最低な舞台だったのかもしれない。

それでも彼らは魂を込めて、それを最後までやり切った。それでいいのだ。それが正解なのだ。古今東西、作品を完成させるたった一つのマスターピースがある。

形式? 違う。

経験? 違う。

技術? 片腹痛い。

「ただ、やり切ること」

完成していない作品は間違いなく名作にはなりえない。この世に作品を存在させること。それが最も大切なことなのだ。

完成した作品は、全てに名作たる権利がある。

そしてそれを名作たらしめるのは、評論でも、風評でもない。

ただ一人の観客からの、心からの拍手だ。

そしてその余韻は、こうして新たな創作を生む。

彼らが演じたニセモノは、いつまでも本物のまま、観客の心に生き続けるのだ。

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