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金烏玉兎【1】

 社会は変わった。

それが自然な”進化”によるものだったのか、何者かに強いられたものなのか。テレビやSNSで、メディアで喧伝されていることのほとんどは、今この時間を生きる俺には関係なかった。

どれだけ言葉を戦わせたところで、目の前の現実は変わらない。果たしてこれは無関心なのだろうか。熱心な友人に言われてから、ずっと心に刺さっていることだった。彼が支持する政治家は、一度も代議士となったことがなかった。

窓外の道路を車が走る。人の姿はまばらだった。食欲をそそる焦げた脂の匂いは消えて久しい。空になった食器たち――ドリンクバーの跡だけが、このファミリーレストランに……いや、世界に人がいることの証明だった。

パソコンと書類を広げた四人がけのボックス席のテーブルの端には、小一時間前に済ませた食事の食器があった。固まった油汚れは、人が洗うものではないのだろうと思った。

 今日は何時ごろまでここに居ようか。

俺はスマートフォンを見た。時刻は間もなく十五時になろうというところだった。昼休憩には少々長いとも思ったが、パソコン上には俺の仕事の成果物がしっかりと表示されている。インターネットには、スマートフォンでテザリングのうえ接続しており、セキュリティも万全だ。冷房に体が冷えたので、ドリンクバーでコーヒーを淹れる。

給与は保障されている。会社員とは、こういうものだった。

 音がした。小さな音だった。机に何かが落ちる、小さな音だった。

仕切り板にはめ込まれたすりガラスの向こう、奥の席に座る後ろ姿の輪郭が見えた。デザインのためにぼかしを入れなかったガラスの縁からは、若く、華奢な首元の線が見えた。性別までは分からなかったが、髪は短いようだった。

この人は、いつからあの席にいただろうか。認知の外側についての想起に意味はない。この人間に意識が向くのは、ひとえに、この世界に自分以外の人間がいることの証明をしてくれたことへの喜びである。

 仕事の電話に、スマートフォンが震えた。

一日に一度あるかないかの、不幸の電話だった。俺は敢えて電話に出ることはせず、しかし帰宅の準備を始めた。辛うじて舌打ちはしなかった。

荷物をまとめ、立ち上がる。

 その時彼女も立ち上がったのは、全くの偶然だった。

俺が残置物の確認をしていると、彼女はコップを持って、席を立った。彼女が女性だということが分かったのは、彼女の体の線を見たからだった。俺にこの世界が今日も確かに存在していることを教えてくれた彼女にちらと視線を向けると、彼女は白い不織布のマスクをしていた。自分だけの世界に入るために伏せられた目には、この世界を諦めたかのような脆い美しさがあった。

 俺は荷物を一度置いて、急いでパソコンを立ち上げなおした。急ぎのメールを送信していないことに気が付いたのだ。幸い、パソコンはスリープモードになっていたのでメーラーは開いたままで、書ききった清書のメールはそのまま残っていた。

しかし、送信ボタンを押してもメールが送信できない。よく見ると、繋いでいたWi-Fiが切断されてしまっていたのだ。

 俺は早く家に帰らなければいけなかった。先ほどの電話に、トイレにでも行っていたことにして折り返しをしなければいけないからだった。急いでテザリングを繋ぎなおそうとするが、肝心のアクセスポイントが表示されない。スマホを操作しながら、何度もアクセスポイントの一覧を確認する。その一覧の中に、不思議な名前を見つけた。

「くるみ」

ひらがなが三文字。

電波強度は強く、この店内、延いては近くの席から発されている電波であることに疑いがなかった。しかし、今この店に人はいない。客はおろか、店員の姿さえまともに見ていない。

 アイスティーをグラスに入れた彼女が、席に戻った。その輪郭は、目の前の景色に平穏をもたらした。

直感した。彼女の名前は、「くるみ」なのだ。

そんなくだらない推理をしながら、俺はテザリングを繋ぎなおし、メールを送った。今度こそ、帰宅の時間である。俺は再び荷物をまとめると、去り際に、ちらと彼女の座るボックス席を見た。

彼女はGoogleのドキュメントを前に、首を傾げていた。確かに彼女は、インターネットに繋がっていた。

 会計の時ばかり、店員は姿を現した。最近導入された新型のカードリーダーで決済を済ませる。現金さえ、しばらくその姿を見ていない。この世のありとあらゆるものが、その姿を隠し、虚像の中で生きているようだった。

店を出る。いつの間にか空は曇っていて、空気には雨の匂いが漂う。襟元からは、飲み切れなかったコーヒーの香りがした。やはり道路を歩く人はいなかったが、車は確かに走っていた。誰もが、どこかから逃げているようだった。

見上げた雲から、一滴、雨が垂れた。

社会は変わった。

新型感染症が、世界を暗く覆っていた。

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