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パンダは七夕に笹を食う夢を見るか~パンダと記憶と過去と今~

そもそも夢というものは一体何なのでしょうか。

作家の武器とは一体何かと問われれば、正しい情報を引き、そしてそれを伝えることでは決してなく、むしろ誤った情報を生み出し、そこに命を吹き込むことだろうと、そう思うわけであります。

しかし、「嘘つきはたった一つの嘘をつくために真実を百言う」のだとも言うわけです。

その狭間はどこなのか。

天の川の彼岸と此岸、七夕の前と後、そんな境界線を探る記事となることを期待します。

パンダと一緒に定義する夢

夢とは一体何なのでしょうかという問いに立ち帰ります。

将来を漠然と定義することを儚くも夢と呼ぶこともありますが、ここでは夜人が眠りにつき、その意識の裏側で繰り広げられる群像劇のことを議論することとします。

夢は記憶の定着作業であるのでしょうか。

一概にそうとは言い切れませんが、確かにそのきらいもあるでしょう。

その日に起きた、あるいは考えた思考のかけらが、雪だるま式に脳内の他の記憶と交わり合い、ひとつの物語を無意識下に展開する。

自らの現状を投影したような夢も、現在進行形の記憶の定着作業の一つと言えるやも知れません。

おねしょの夢を見ると、実際に布団が濡れていたとか、よく聞く話ですよね。

であれば、果たしてパンダはどうでしょうか。

パンダも脳を持つ生き物ですから、何らかの形で思考を行っているはずです。

大好きな笹や竹を食べた日は、その記憶を反芻することがあるやもしれません。であれば自然、パンダは竹を食う夢を見ることになります。

パンダさんに夢を見たかを問いたいのはやまやまですが、残念ながら私はパンダの言葉を持ちません。

答えを聞くことができない以上、我々はその先を予想することしかできないのです。

では、記憶と表裏一体らしい思考とは一体何なのでしょう。

記憶の不完全さとパンダの夢

さて、それはそれとして、人間の記憶とはしかつめらしく語られるものでありますが、その実この世で最も信用できないものの一つです。

「昨日の晩御飯は?」

とは最もらしく言われることの多い認知機能テストではありますが、その実意外と多くの人が答えられません。

つまり、健常な人間とて、覚えようという意識がなければろくすっぽ何にも覚えていないのです。

待ってください。では、パンダには覚えようという意識はあるのでしょうか。

過去に何が起きたのか。あるいは今、何が起きているかということを、記憶に刻み付けようという意思はあるのでしょうか。

ではここで境界線上の話。

過去と今との境目とは、一体どこにあるのでしょうか。

一つ言えるのは、過去も今も、それは我々の認知機能の上にあるものだということです。

我々は今を今と漫然と生き、過去を過去と漠然と捉えています。

パンと音を鳴らし、手を叩いてみてください。

一体どこまでが今で、どこからが過去なのでしょう。

言い換えればこうです。

どこまでが思考で、どこからが記憶なのでしょう。

(ちなみに私にとってこの問いは、十年来答えの出ていない命題でもあります。)

つまり思考とは、今を生きることと関連深い行為であると言えるようです。

確かにパンダは今を生きている。それは生き物として思考しそこに生きるパンダを愛玩している人間自身が証明していることです。

パンダを見に行くほとんどの人は、絶滅した生き物の剥製を博物館に見にいくことはしません。

パンダが生きて、そこで思考をしているから、人々はパンダの思考を観察しに行くわけです。

では、記憶は?

パンダは今を生きている。では、過去を記憶しているのでしょうか。

パンダは今夜、笹を食う夢を見るだろう

結論から言えば、パンダは今夜、笹を食う夢を見るでしょう。

パンダは思考をしているということはわかりました。であれば自然、記憶というものは、思考の蓄積でなければならないからです。「今」がいつか過ぎて「過去」になるのなら、「今」があるのなら、「過去」もある。

そう思いませんか?

七夕にかこつけた、少し回りくどい記事になってしまいましたが、私の知りたいことはただ一つ。

「一体今は、いつ過去になるのか」

場合によっては「今」なんてものは存在しないのではないのか。

そんなさみしい幻想は、今日も天の川の向こうに消えていくのです。

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