日を跨ぎ続く鉄道旅
早朝、池袋は曇天の中。
一大ターミナルたる池袋駅には立派な改札が二つも三つもあるが、肝心の駅員がどこにもいない。
ようやくその姿を認めるも、別の客の対応中のようだった。
別の改札に向かうと、有人改札には呼び鈴が設置されていて、鳴らすと裏から駅員が出てきた。今日の改札印をきっぷに押してもらい、私はホームへと上がった。
あれから2週間。青春18きっぷはあと2日分残っていたが、野球観戦との兼ね合いで、次の旅に時間がかかってしまった。暑さこそ変わらないが、暦の上ではじんわりと秋が近づいている。さわやかな風が吹きはじめるまで、さほど時間はかからないだろう。
とはいえこの日は季節外れの台風が関東地方を直撃していて、房総を目指そうという私の目論見は、この時点で崩壊していた。
関東最強の呼び声高い埼京線を待ちながら、今日の行程を考える。とりあえずの目標として、私はこれから朝食を摂ろうと思う。
大宮行きの普通電車がやってくる。私は一路、その先の高崎を目指した。
途切れた道の手前
高崎で信越線に乗り換えれば、目的地は絞られる。
少林山達磨寺の群馬八幡駅、”温泉♨️”のルーツと舌切り雀の磯部駅。
そしてその二つを通過した私が向かうのは、歴史の入り口であり終点、横川駅である。
横川駅といえば、一にも二にも峠の釜飯が有名だが、それにもこの辺りの地域史が深く関わっている。
かつて信越本線といえば、群馬県から長野県まわりで新潟まで至る長大路線だった。
大人の事情で細切りにされた信越本線は、この高崎ー横川間、篠ノ井ー長野間、直江津ー新潟間を、今も走り続けている。
失われた区間で最も有名なのが、この横川と軽井沢を結んでいた碓氷峠であって、この峠に鉄道を通したことは、日本の鉄道史に燦然と輝く偉業だ。詳細については語り尽くされているので省くが、きつすぎる急勾配を鉄路で越えるために、当時最先端の技術が惜しみなく投入された。
で、ようやく釜飯の話だが、碓氷峠を越えるため、当時の汽車は、横川駅で登山準備をする時間が設けられていた。この待ち時間を使って販売が始まったのが、峠の釜飯というわけなのだ。
さあ、やってきた横川駅。
時計は10時を指すには少し早くて、駅併設の売店はまだ空いていなかった。
横川の街は、釜飯の荻野屋と鉄道文化村で成り立っているようなもので、特に荻野屋に関しては、売店に、食堂に、ドライブインにと、関連施設がいくつもある。
ドライブインが10時開店だったので、私は散策をしながらそちらに向かうことにした。乗るべき帰りの列車は、約1時間後だ。
中山道
かつての宿場町でもあるらしい横川。何はなくともそこにある関所跡を眺め、由来由緒もわからないらしい石碑を見物した。文字が書いてある以上のことは、無学な私には、残念ながら分からなかった。
街をぐるりと回ってくると、鉄道文化村の裏手へとやってきた。かつて日本全国で活躍していた特急車両たちが展示されている広場が見えた。どれが何かは全く分からなかったが、どれも確かに見たことのある顔だった。
柵に沿って駅のほうに戻ると、そこが鉄道文化村の入り口だったようだ。
時間はちょうど10時になるところで、チケット売り場の前に、1人の男性が立っている。
不思議なもんで、こういうことはよく覚えているものだ。彼は確かに同じ電車で、高崎からやってきた客だった。私はただの物見遊山だが、彼は確かな理由をもって、開場と同時にこの場所に入りたいのだろう。
私は彼と違ってここに用事はなかったから、彼が文化村に入るのを遠巻きに見送ってから、荻野屋のドライブインへと向かった。
初めまして、釜飯
「峠の釜飯」
私はこの一言を言いに、ここまでやってきた。そして、それは果たされた。
レジの店員の後ろにうず高く積まれた番重。
そこから取り出されるのは、おそらく今日一つ目であろう峠の釜飯。
これだ。これである。
母を訪ねて三千里、釜飯を求めて三十里。
クレジットカードで会計を済ませると、まだ温かい釜飯を、ビニール袋で受け取った。
反対周りで駅に戻り、入ってきた電車に乗り込むと、釜飯を膝に乗せ、電車の出発を待つ。
折り返し、前を通った女性の車掌は、行きに私をここまで乗せてきた人だった。
何年か前、群馬総社で達磨を買ったときも、信越本線の車掌は女性だった。もしかしたらその時も、彼女は私を乗せていたかもしれない。
閑話休題 西武線
高崎駅に停まる高崎線のグリーン車内。釜飯の蓋を開けて、初めての遭遇に箸を震わせながら、発車を待つ。
今日はこのあと、所沢で音楽鑑賞の予定があった。残念ながら、現地は西武線しか通っていない場所のため、秋津で乗り換えということになる。
新幹線や特急に乗ってしまうと、いつも埼玉県は通過してしまう。一体浦和はいくつあるんだと思いながら、南浦和で乗り換えた。
それでは、またあとで。
東北へ突っ込め!
コレオマニアの余韻もそこそこに、秋津で北極ラーメンを食べながら、予約をしたのは新白河の東横インだった。
今日、とりあえず移動できる北限を調べたところ、新白河が限界のようだった。あくまで北限が新白河というだけであって、時間には幅がある。
途中、宇都宮を通ることになるから、それならば噂の餃子なる食べ物を食べてみようと思いながら、福島県に宿を取った。
来た道を戻り、今度は大宮から東北線を下っていく。夜、欲望の渦巻く時間、ようやく私は宇都宮に到着した。
餃子の街は名物をつまみに明かせるのだろうと考えていた俺は、宇都宮線の車内で驚きに目を細めていた。
大概の餃子店が、20時で閉まってしまう。
餃子の街では、神聖なる餃子を酒の”お供”にすることなぞ許されないということか。
長蛇の列が当たり前であろう老舗の空いた時間を狙っていたが、そもそも店が開いていないのであれば仕方がなかった。待つとか、待たないとかの問題ではないのである。
ペデストリアンデッキから、街を見渡す。名のある街ということもあって、駅前にはビルが林立していた。多少なりとも街の様子を見通すことができれば、暖簾を掲げている店の一つでも見つけられると思ったのだが、ビルはそんな目論見をも遮っていた。
デッキを降りる階段のそばに、真っ赤な看板を掲げた餃子屋があった。終電の時間もある。私は赤色を目指して、ペデストリアンデッキを降りた。
幸い店内はほとんど空席だった。今ではすっかり当たり前になった、浅黒い肌の外国人が、片言の日本語で私を通した。
一口に餃子と言っても、種類が豊富である。当たり障りのないものをいくつか選んで、ビールと、つまみを添えた。
郷土の文化を楽しむ間も、時間は刻々と過ぎてゆく。今夜の宿まで、あと75キロ。
セルフレジで会計を済ませると、私は再び電車に戻った。人々は既に眠っている時間なのか、車内はガラガラだった。新宿駅の終電が、いかに異常なものかということなのだろう。
名は体を表す。
だが、必ずしもそうとは限らない。
宇都宮を出てからしばらく、何度地図を見ても、ここは関東のはずれの山奥である。
どこに磯があるのか皆目見当のつかない黒磯駅から、ついに東北の電車に乗車ということになる。
ボックス席に人はまばらで、ドアを照らす蛍光灯の側には、車内にも関わらず、蜘蛛が巣を張っていた。
小さな蜘蛛が、家賃の類を払っているのかは、私には関係ないことだった。
時計の針は深夜を目指して進む。私は新白河の駅を目指した。
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