人はなぜ、明日に希望を見出せなくなるのでしょうか。
知りません。そんなものは。
悪友がこう言いました。
『テキトーに3000字の文をスラスラ書けるやつがいたら、私の前に連れてきて欲しいものです』と。
始まったのは、3000文字の文章作成タイムアタックです。
ルールは簡単。この下書きWordファイルを開いてから、3000文字のまとまった文章をどれだけ早く作れるか。
もちろん、この前置きはのぞいて。
新しい朝は、希望の朝の夢を見るか?
私は朝、6時に起きます。
そして、三度寝をします。
七時半には家を出て、会社に向かいます。
会社では、7時間前後労働をします。
帰ってくるのは、19時くらい。私はそのまま、スタバに行きます。
最近、4月から入ったらしいスタッフの子らに、「1杯目ですか?」とか、「お疲れ様です」とか、言われるようになりました。
そして、店の閉店までこうしてノートパソコンのキーボードを叩きます。
もちろん、キボクラのような芸術を志してはいません。
ただ、文字をタイピングしては消し、タイピングしては消しているだけです。
それを1時間も2時間も、10時間も100時間もやっているだけです。
何の特別なこともしていません。
家に着くのは23時くらいです。
そこから家のことをして、床に就くのは1時くらい。
もちろんカフェインを大量に摂取した後ですから、目はさえて、ろくに眠りに付けません。
電子レンジも、冷蔵庫もない。本棚とベッド、あとはフランスに旅立った先輩がくれた、2011年製で、BCASカードの入っていない、時刻表示を時計代わりにしている、点けっぱなしの23型のテレビだけがある部屋で、そのテレビが、PS4からの信号によって、YouTubeの動画を延々と流し続けるのをたよりに、自分が眠るのを待ちます。
そして気付けば、目が覚めるのです。
薄く引かれたカーテンの隙間からは、ネイビーブルーの光が差します。
PS4の電源は自動で落ちていて、テレビはただ黒く光り、画面には、4時55分の記号が浮き上がっています。
眠い目を擦り、眠りにつきます。
そして6時になると、2台のiPhoneのアラームが、私の肩を揺すります。
私はそれをスヌーズにして、また三度寝を始めるのです。
さて、あなたはこの文章を読んで、どう思うでしょうか。
不遇? 退廃? 絶望?
当の本人は、喜びを感じます。
また今日も、新しい朝が来ることに。
思えば、愉快な人生を生きてきました。
詳細は伏せますが、一家は離散しています。
実家は、公害によって物理的に崩壊しかけました。
家庭も崩壊しました。母は宗教染みた思想信条にのめり込み、父は3人分の住宅ローンを背負い、一人で生きています。
そして子は、家庭の崩壊を言い訳にして、今日もこうして一人で生きています。
おそらく同期が得ている給与所得の半分の収入で、父にも、母にも、誰にも頼ることなく。
母は何も言いません。
父は何も言えません。
そして私も、何も言いません。
どうですか。非常に愉快でしょう。
勘違いされると困るのですが、これは、喜劇の戯曲です。
決して悲劇のそれではありません。
オイディプス王のように、悲しく痛ましい結末はありません。
不条理を楽しむ演劇なのです。
希望はありますか?
私には、希望があります。
明後日の食堂のメニュー。その次の日の、野球観戦。その2日後の、親友とのキャッチボール。その次の日の、誰かの笑顔。
真っ当な人生を生きることは、もうできません。
それは私に課せられた運命でした。
何もかもを運命で否定することはつまらないと思います。
けれど、タロットカードで「運命」が意味することは、正位置でも、逆位置でも、「人生の中で、変えることのできないこと」。
思えば真っ当な人生を生きようとあがき続けた人生でした。
今でもその思いは変わりません。
少しでも、真っ当な人生のエッセンスの中で生きてみたいと思っています。
けれど無理なものは無理です。
現実的な話をしましょう。
既に3年という日数をフリーターとして過ごした私と、くだらない三流企業で、しかし堅実にボーナス付きの日給月給を3年間得続けているであろうどこかの同級生。
人生の質はさりとて、貰える年金の金額が違います。
老後に2000万など用意できません。
けれど、そこで諦めてはいけないんだと思います。
憧れてはいません。けれど、尊敬している先輩がいます。
彼は齢30を超えていて、下北沢を拠点としています。
口を開けば、競馬の話。
バイト中に私に仕事を全て任せ、汐留まで馬券を買いに行くような人です。
ある飲み会で、彼は言っていました。
「自分はもう30。定職にもつかず、借金だらけ。それでも、自分のやりたいことをしている。20のお前が諦めて、なんになる?」
先輩はそのまま同輩たちと一緒に、新宿のクラブに消えました。
時刻は、午前の3時を回っていたと思います。
その日、煙たがれていた別の同僚と、タクシーで1万円近くをかけて家に帰ったことを、私は今でも後悔しています。
その飲み会で、彼はこうも言っていました。
「お前はもっと、恥をかけ。そうすればきっと、もっと面白くなるから」
誰かのお手本にはなれません。
けれど、誰かの前に立つことはできます。
それがこうして『国』を統べている理由のひとつ。
金はない。時間もない。何か、特別なものを持っているわけでもない。
ただ、人より多くのものを失ってきただけ。
人より多くの物を失ってきたからこそ、人より多くの物を手に入れたいのです。
あなたが欲しいものは何ですか。
私が欲しいもの。
それは、私が価値を感じた、この世の全ての物です。
テトラルキアには、価値のある物だけを並べたいと思っています。
陳腐なものや、量産品は不要。
自分がこの目で見て、素晴らしいと感じられるものだけを並べていきます。
ビジネスとしては、大失敗です。
だが、それでいい。
アレクサンドリア図書館も、アッシュルバニパルの図書館も、今はもう消え去っています。
この場がそれであるのなら、消えゆくさだめであるべきです。
だからこそこの場を訪れるすべての人々よ。
この全てを、今のうちに目に焼き付けておいてください。
少なくとも現時点で、この場所に未来はありません。
早ければ2023年の2月には、この場所はなくなります。
それは極めて現実的な話です。
サーバー利用料の次の支払いが、そのころだからです。
私は誓って、この場所をできる限り長く残したい。
自らが打ち立てたこの理想郷を、できることならば永遠に残したい。
打てる手はすべて打つ。
結果は出ています。けれど、成果はまだ出ていません。
いつだってそう。私のやることは、成果が伴わない。
これもまた、短い人生の中で、私が失っている物のひとつです。
小学校の少年野球。練習から「バントの神様」ともてはやされた私の公式戦犠打数は、0。
中学のバスケットボール部。体格不利を補うためにスリーポイントシュートを磨き、私が掴んだポジションは、スコアラー。
高校の生徒会は、「わざと」不人気な先輩に応援演説を頼み、落選。翌日張り出された選挙結果は一瞥もしなかった。ああそういえば、この時だけは狙った結果になったんだった。
大学受験。上智大学は、私の入学を拒んだ。
残りは、全部受かった。
小説の投稿を始めたのもそのころだ。
結果は、言うまでもない。
ああ、素晴らしい。なんて素晴らしい人生なんだろう。
ひっそりとこれを読む、もう一人の運営もそう嗤うだろう。
我々は狂っていて、それでいて素晴らしいのだ。
彼は少し違う視点でそれを愉しみ、違う言語野で、似たような感想を漏らすだろう。
私は今日も、手に入らない何かを求めて生きている。
明日に希望なんてものはない。
どうせ何かを失うのだから。
私は明日も笑います。
きっとレオニダスは、テルモピュライの峡谷で、同じように笑みを湛えていたのでしょう。
よい子は最初から、悪事をしません。
悪い子は決して、真似をしないでください。
この生き方は、他の誰にもできない生き方だから。

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