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haru

音楽と社会で泳ぐ27歳、会社員。

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音楽と私 1

初めて作った曲のタイトルは『もんじろうのマーチ』。

昔飼ってたハムスターのもんじろうのテーマ曲として作ったヘ長調のマーチ。

あれは5,6歳頃の事だっただろうか。

今でこそ作った曲をみんなに聴いてもらいたい!と思い、色んな形でお披露目しているけれど、そうなったのは音楽を始めてから20年近く経ってからのこと。Spoonという場所で音楽を始めてから数ヶ月が経ってからのこと。

これは、私が歩んできた音楽との話。

2歳になってすぐの4月、私はヤマハ音楽教室に通い始めた。

バレエを習わせたかった母と音楽をさせたかった父。

何故音楽が採用されたのか聞いたら「幼なじみのかほちゃんが行ってたから体験入学してそのままよ」と言われた。

ちなみに父は学生の頃ギターやベースを趣味にしていた。そして、両親ふたりとも演奏は出来ないけれど音楽が好きな人たちだ。

3月生まれだからか、とにかく育つのが遅かった。

立つことも喋ることも周りの誰よりも遅かったそうだ。

『あの頃は喋らなくて心配したけど、今じゃもういいってぐらい喋るわね』と母は笑って私に言った。

そんな様子だったから、2歳から通った音楽教室でもまともにレッスンは受けられず(そもそも何が起きてるのか理解してなかったんだろうな)、先生はきっとモンスターと戦う気持ちだっただろう。

ある程度大きくなるまでは親も参加しなくてはならないヤマハのレッスンシステム、ピアノを習ったことの無い母が一生懸命レッスンを受けて、幼稚園に入るまで見様見真似で私にピアノを教えてくれた。

幼少期の記憶の中で、私の中の歯車がカチッと音を鳴らしたかのように、演奏する楽しさを教えてくれた曲がある。

『ジプシーの踊り』

イ短調の簡単な練習曲を、初めて止まらず弾き通せた。

その時、まるで私の中のあらゆる細胞が目を覚ましたかの様な感覚に陥り、私は演奏することの楽しさと喜びに夢中になった。

元々7割人間なんだと思う。

ある程度のことは実感としても成果としても7割出来た。

楽器も、さほど練習しなくても先生から花丸は貰えたし、私って周りよりは上手いのかも。と子供ながらに生意気なことを思ったものだ。

元々生まれ持ったのかは分からないが、絶対音感も身につけた(これは、大学時代の聴音の試験で99.5点を取ったことや、YouTubeの絶対音感テストを見た限りの自己判断なので、いつか検査を受けたい)。

ヤマハでは子供向けの作曲コンクールが開催される。

ジュニアオリジナルコンサート、通称JOC。

小学生になってから何度か参加した。

最初に作ったのは朗読音楽『宇宙船に乗って』。

主人公のわたしが宇宙に旅するお話。

台本も考えて、組曲仕立てにした。

その時作った曲はト長調だった。

小学校高学年の時、音楽の道に進むか社会科教諭になるか考えていた時期がある。

結果、音楽の道に進むことになるのだが、社会の中で音楽がどういった役割を持つか、社会の中でどのようにして音楽を伝えるかを学ぶ専攻に入ったことを考えると、私は自分のやりたいことをやれる人生を歩んでいるのかなと少し嬉しくなった。

中学では迷わず吹奏楽部に入った。

パートはエレクトーンの演奏にいい影響があればと考え打楽器を第一志望にし、無事に打楽器パートに入った。

アンサンブルを1番後ろの列から見て演奏出来たことは、私にとってとってもプラスだった。

そして、2年生の時から学生指揮者としてアンサンブルを作る立場に触れられたことも、とても大きかった。

私が嫌いだからとアンサンブルに参加しない性格の悪い同期がいたり、思春期特有の頑張る人がかっこ悪いみたいな風潮にも負けて、先生のように歌いながら指導することを躊躇ってしまったことも、反省点として私の記憶に刻まれることになり、結果としてプラスになった。

そして、中学に入った時点で音楽高校に進学したいと思うようになった。私には音楽しかないと思った。そして、私の進みたい道を1番近くで応援してくれた両親がいた。

合唱コンクールは3年間ピアノ伴奏をしたし、週に3回のレッスンも必ず通った。

勉強は自力でどうにかなったし、私は中学3年間を音楽に捧げた。

めでたく第一志望の音楽高校に合格し、胸躍らせ、憧れの学び舎をくぐった。

先述したけど、私は7割人間で、狭いコミュニティの中では上手い方だった。

そういう環境にいると、私って上手いかもと勘違いしていたわけで。

40人の音楽クラスの生徒。

全県から集まる選ばれし者たち。

どこか相手を見定めるような、張り詰めた空気がそこにあった。

ピアノ科はもちろん、ヴァイオリン、サクソフォン、クラリネット、フルート、作曲など様々な専攻の学生がいる。

エレクトーン専攻は私の他にもう1人居た。

彼女は穏やかに、だけどどこか寂しさをもって、だけど自信のある顔をしていた。

そして1ヶ月が経つ頃、私は打ちのめされていた。

何もかも、彼女より劣っていた。

受賞歴も、持っている技術も、勉強も、なにもかも。

なんて馬鹿なんだろうと思った。

習っていた教室の中で、学校の中で少し出来ただけなのに、自分は出来る子なんだと思っていた。

いや、出来ない子ではなかったのかもしれないけれど、出来る子でもなかったことを知った。

悔しかった。

とにかくとにかく悔しかった。

まず、彼女に追いつこうと思った。

まだ取らなくていいかと思っていたヤマハエレクトーングレード5級(音大レベルの技能検定)の勉強をした。ソロでもアンサンブルでもコンクールに出た。聴音も先生に頼んで内容を音大入試レベルにあげてもらった。

結果、グレードも受かったし、コンクールもそれなりの成績が貰えたし、聴音のクラスはBから1番上のAに昇格した。

だけど、練習が好きじゃなかった。

曲を仕上げるのが好きじゃなかった。

初見が得意かつ好きで、好きな曲を好きな時に好きなように弾くことが好きだった。

私の通っていた高校では、半年に1回「校内演奏会」と呼ばれる発表会が行われる。

日頃の成果披露が第1の目的だが、この演奏会、先生はほとんど手を出さない。

出演順決め、プログラム作り、当日の舞台転換やアナウンスなど、コンサートに関わる業務は全て生徒が分担して担当する。

これは、音楽家になった時にどんな業務が必要なのかを実践を通して勉強するためだ。

2年生の後期からは会場が学校から地元のホールに変わり、大ホールでのコンサートとなる。

2日間、合計8時間ほどの長時間の公演だ。

元々誰かや何かをまとめることが楽しかった。

頼られることが好きだった。

部長や委員長といった、役職が好きだった。

校内演奏会には、全体を取り仕切るリーダーのような役割が必要だった。

私は迷わず立候補した。

話を戻すと、まぁとにかく音楽三昧の3年間が始まり、クラスメイトや先輩後輩と歌い、鍵盤を叩き、耳を育て、また歌う、その繰り返しの日々だった。

音楽三昧の中でも放課後友達と遊んだり、趣味を見つけたり、部活に参加したり(余談だけど何故か女子硬式テニス部に入部し、マネージャーになった。理由は仲良くなった他専攻の女の子が入部したテニス部がマネージャーを探してることを聞いたのと、音楽クラスが忙しいことは知ってるから平日来なくていいよ、と先生や先輩から言われたから)、思い返すと人生で一番充実した学校生活を過ごした。

高校2年生になって、私は演奏すること以上にアートマネジメントに興味を持った。それは、校内演奏会の仕切りをやっていたことと、テニス部でマネージャーをしていた事が大きかった。

とある音楽大学にアートマネジメント専攻があることを知り、周りの流れに任せ音楽大学を受験した。

だけど、私は大きな確認不足をしてしまっていたことに、まだ気がついていなかった。

高校3年生の夏、入試を受け無事合格した。

同封した書類を確認すると、そこには振込用紙がついていた。

金額を見ると250万を超えた額が記載されていた。

「え?」

両親と顔を見合せた。

受験要項を読み返すと「合格したあと、1週間以内に初年度の学費をお支払いください」と、小さな小さな文字で書いてあった。

無理だった。

そんな額、払えなかった。

マネジメントの道に進むのは諦めよう。

プレイヤーにはならない(なれない)けど、ここまで弾けるようになったし、ヤマハの先生になろう。ヤマハの先生になるための専門学校なら学費が安い。

焦りと青さで私は進路を変えた。

時は過ぎ秋、専門学校の入試試験があった。

5級も持っているし、音高育ちだし、どうせ受かるだろうと思っていた。先生たちにも、きっと受かると言われていた。

「あなたの長所と短所を教えてください」

演奏試験が終わり、面接が始まった。

5人の審査官と私。代表の男の人が質問してきた。

「長所は明るくリーダーシップがあるところ、短所は少し短気なところです」

私は答えた。

「あー、そうだよね。そんな感じ」

私は試験官の顔を見つめた。

「あなたの音ってさ、1音目から勝気で短気で負けず嫌いで、1分聞いたところでもう聞きたくなくなったよ。あと履歴書なんだけど、雑さが出てるし、ここにも勝気で短気なところが出てるよね」

私は何を言われたのか分からなかった。

「あなたが今まで培った技術全部捨てて、一から勉強し直せば先生としてやってけないことは無いと思うけどね〜。どうする?入りたい?」

私は何も言えなかった。

目黒から横浜までどうやって帰ったか、よく覚えていない。

その夜、部屋の電気もつけず、ただただ泣いた。

「私、もう音楽やめよう」

翌日、ヤマハの先生に来月で辞めますと連絡した。

そして、専門学校から不合格通知が届いた。


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連載:25歳の私

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