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『#だから今シャッターを切った』
その文字を見たとき、「あ、これは手を入れず、このまま掲載してもいいな」と、思った。
あがってきた文章は粗削りだったし、文意が汲み取りづらいところもあった。
それでも、「このままでいい」と、思わせる未了が。「不器用で、実直で、好きなことを好きにやる」彼の人となりが、文章からにじみ出ていた。
『樹』のことは、彼が『たっきー』と、呼ばれていたころから知っていた。
だからこの『tetrarchia』というものを考え付いたときに、真っ先に声をかけたのが彼だった。『たっきー』のことを良く知る読者には、なぜ彼に声を掛けようと思ったのか、彼の持つ特別な魅力というものを、理解してもらえると信じている。
もがきながら生み出された、「3,000文字の旅」
記事を依頼するにあたって、「3,000文字以上」という文字数制限以外、こちらからは記事の内容について、なんの指定もしなかった。
例えば人の立ち振る舞いで最も嫌われることのひとつが、「なんでもいい」の連呼であることからしても、これは著者にとって非常に自由で、非常に不自由な注文だったと思う。
tetrarchiaは「クリエイターの魅力を引き出す」ことを是としているから、そのクリエイターが、最も書きたいことを記事にしてもらっている。それ即ち、書くことに対する制限がないのだ。
記事は彼自身が目標としていた期日を過ぎてもなかなか上がってこず、彼は記事と悪戦苦闘しているということを、周囲にほのめかしていた。
そしてようやくあがってきた、1本の玉稿。
その最初の行には、「#だから今シャッターを切った」と、銘が打たれていた。
本当は、伝えなくても良いこと。
#だから今シャッターを切った①
文章は、そこから始まる。
それが彼が考えた末に出した、結論のひとつなのだろうと思う。
『世の中に、伝えるべきものはない』
これは創作をするうえで、確かに最も重要で、致命的な命題である。
例えば、この文章をこうして公開することに、何の意味があるのだろうか、と自問する。
意味などない
それが答えだ。
この文章がなくても、私は生きられる。あなたも死にはしない。
電車は時刻表通りに運行するし、スターバックスのドリップコーヒーは苦い。
自転車で道を行く主婦は帰宅後子供を叱りつけるし、彼氏の腕にしがみつく彼女は違う男と今夜を過ごす。
何も変わらない。創作なんてものがなくとも、この世界は回る。
それでも、自分の中に湧きあがる何かを、こうして表現せざるを得ない。
たとえこの文章が誰にも読まれないとしても、表現しなくてはならない。
『だから今シャッターを切った』
その銘に、ふさわしい文章だと思った。そしてその文章は、言葉の持つ力を自問する。
読者は知る。
伝える必要のない、それでも伝えようとせざるを得ないことが、この先に続いていくのだと。
冗長にも見える書き出しは、同時に彼とともにゆく壮大な旅が始まることを、私たちに教えてくれた。
樹とともに歩く、湘南の冬
言葉はものを表現するうえで、最も弱い媒介だと私は考えている。
例えば「カフェでコーヒーを飲む」とう文章から、私の目の前に伸びる注文待ちの列の長さだとか、列の構成人数だとか、客の服装だとかを全て瞬時に理解できる者はいない。
私が飲んでいるコーヒーの苦みを完全に感じることができる者もいないし、そもそも私がタンブラーを持参したことに気付くことができた者などいまい。
それらを全て文字に起こそうとしても、それはただ解説過多で冗長な文章となる。
文章のいいところは、余白に想像の余地が生まれることだ。
「絶世の美女」と書いてやれば、あなたはきっと、好みの女性の顔を思い浮かべる。
「絶品の食事」と書いてやれば、あなたはきっと、好きな食べ物や、食べてみたい高級料理を思い浮かべる。
この曖昧さこそが文章の妙味であり、同時に弱点でもある。
『#だから今シャッターを切った①』は、この曖昧さがよく活かされていた。
風景や情景の描写が秀逸で、ばらばらと現れる景色の断片が、言葉というフレームの中に、鮮やかに切り取られている。
湘南がどこなのかは、湘南に住む者にしか分からない。
『#だから今シャッターを切った①』の中には、湘南で生まれ育ち、今の湘南に憧れる著者だからこそ描ける、冷たい海風のさす冬の湘南があった。
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