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【資格:新人に限る】Viva la Vida:Coldplay

文字の書いてあるものは、どんなものでも面白い。

それはもちろん、歌詞だってそう。

無限の王国

Coldplayというバンドがどんなバンドなのかを、私は知らない。

この曲について彼らが何かを語ったことがあたとしても、私はそれを知らない。

ただ1日前に聞いたこの曲が、心に焼き付いて離れないということが、この記事の書き出しに最もふさわしい導入なんだろうと思う。

※歌詞全文掲載および和約はありませんのであしからず

モーセからフランス復古王政までのタペストリー

紀元前1300年前後、ヤハウェの神託を受けたモーセは、エジプトの地で迫害されていたイスラエル人たちを引き連れて、約束の地カナンを目指し旅立った。

だが彼らは、紅海を前にして、追手のエジプト軍に追いつめられる。

しかし、モーセが祈ると、紅海が真っ二つに割れ、イスラエル人たちのための道が生まれた。

エジプト軍はそれを追うが、エジプト兵がその道に踏み込むと、海は元に戻り、エジプト兵たちは溺れ死んでしまった。

イスラエル人たちはパレスチナで、エジプトに移住しなかったイスラエル人たちと合流し、彼らの共同体は、イスラエル王国へと発展する。

これは有名な、「出エジプト」という出来事だ。

『Viva la vida』

この物語を知るために、最も重要な書き出しでもある。

この曲の歌詞の中には、歴史上の王国の、様々なイコンが、一切隠されることなく、むき出しで配置されている。

この記事を読んでから曲を聞いて、壮大な歴史の大河に身を任せる感覚を味わってもらえれば嬉しい。

「王国」

王国とは何か。

そう問われたときに、あなたは胸を張って答えることができるだろうか。

というか、王が何かということを明確に答えられるだろうか。

「国民を統べる者」であることは確かだが、それだけでは少し浅い。

とはいえ深掘りを始めると地下深く、マントルまで掘れてしまいそうな話題なので、大事なところは割愛させてもらう。

一言で表すと、

神に選ばれた者

これが王だったのだ。

国家にはそれぞれ主流の宗教があり、その宗教の神によって選出されたり、あるいは神そのものの地上での姿が王である。これが、「王とは何か」と問われたときの、最も汎用的な答えだ。
※日本でも、天皇家の始祖は神様。

『Viva la vida』はイギリスのロックバンドColdplayの楽曲だ。イギリスは広く言うところの「キリスト教」の国であり、その首長はイギリス国王だ。この曲に落とし込まれたモチーフを感じるためには、時空の流れを超越した神の存在と、そのもとに興亡した諸王国を知らなくてはならない。

ローマは一日にして成らず

ユリウス・カエサルは、政敵との共和制ローマの共同統治を行った。

だが、彼がガリア(フランス)での戦いを終えると、政敵ポンペイウスは、その職権をもって、カエサルを解任し、ローマへの帰還を命じた。

カエサルは、ガリアで共に戦った歴戦の兵士たちと共に、ローマへの道を進む。

『賽は投げられた』

カエサルとその軍団は、ローマの前に流れるルビコン川を渡り、最後の戦いへと突き進んでいった。

カエサルはそのローマ内戦に勝利する。

「シーザー」「カイザー」「ツァーリ」

『皇帝』という言葉の語源が『カエサル』である言語は多い。だが皮肉にも、彼は皇帝にも、王にもなることはできなかった。

「ブルータス」が一体何者だったのかは議論があるが、彼は神に選ばれることはなかった。

冠を頭に載せることなく、暗殺されることとなった。

栄枯盛衰

18世紀のフランス革命がなくとも、王朝というものは、意外と簡単に崩れ落ちるものでもある。

例えば13世紀のジョン欠地王は、市民の怒りを買い、王権を制限する法律に署名を強制されているし、17世紀のジェームズ2世は、議会がオランダ国王とその軍をイギリスに上陸させるという裏切りのような革命で、国を追放されている。

そういったとき、人々は古い統治者のことは死を求めるほどに憎むし、新しい統治者の統治は、どこまでも清く、希望に満ちたものだと錯覚する。

王を変えても、都を移しても、戦争は終わらないし、疫病は収まらない。

そんなことは分かっているはずなのに、人々は愚かにも、歓喜の叫び声を上げ続けてきた。

閉塞した時代の中では、その象徴を自らの手で打ち滅ぼすことが、何よりの快楽なのだ。

そして人々は、昨日諸手を挙げて歓迎した新しい統治者を、今日はブーイングと共に断頭台に送り出す。何も変わっていないということに、誰一人として気付こうとしない。

人間の哀しい性は、どれだけ時代が移ろっても、変わるものではない。

神に背くということ

日本では、「神様」というものは曖昧だ。

古事記を暗記している人は好事家だし、法事の坊主の説法も、ほとんどの人は覚えていまい。

だが、海外では、教育は宗教を通して行われているという共通認識が根底にある場合がある。

聖書のような聖典が存在し、少なくとも生活の中のどこかで、それに触れたことがある。

例えばアメリカの中絶に関する議論は、典型的な「宗教に根差した価値観を守るかどうか」という議論だ。

塩の柱、砂の柱。どちらも聖書の中で、神の言葉に背いた結果の象徴だ。

塩の柱は、ロトの妻が神の言いつけに背き、塩の柱に変わってしまったという話。

そしてイエスは、「砂の上に家を建てるものは愚か者」と言った。

常識外れな場所に自らが立ち、そのことに満足していたと気付いたとき、果たしてどんな感情が、彼の心に浮かぶのだろう。

もうやり直すことはできない、後戻りはできないと知ったならばこそ、なおさらに。

走馬灯のように駆け抜けていく、人類の歴史

曲のサビはこうだ。

I hear Jerusalem bells a-ringing
Roman cavalry choirs are singing
Be my mirror, my sword and shield
My missionaries in a foreign field

エルサレム。それは聖書に書かれた約束の地であり楽園。そして何より聖地であり、幸福をもたらすはずの福音のベルが一斉に鳴り響く。

ローマの聖歌隊が、王のため、民草のために、厳かに聖歌を歌い上げる。

中世に入り、王はその統治を、貴族や、騎士に、自らの生き写しとして、そして自らの力として代行させることになる。

自らのしもべでもある宣教師たちは、王の統べる土地を広げるため、未開の地で宣教を行う。

For some reason I can’t explain

Once you’d gone, there was never

Never an honest word

しかしそんな中、なぜだかわからないが、正直な言葉が何一つ口にできないのだ。

まるで、聖ペテロがイエスとの交際を否認し、罰を逃れようとしたように。

だが、2番以降は、サビの後にこう続く。

For some reason I can’t explain
I know St. Peter won’t call my name
Never an honest word

「理由は分からないけど、聖ペテロは私の名前を呼ばない」

「本心は決して口にしなかった」

キリスト教では、天国に入るためには、聖ペテロに名前を呼ばれなければならない。

名前を呼ばれないということは、天国に入ることができない。

今までの虚栄が、最後に王の行く手を阻むのだ。永遠に。

だが、信じるものは救われるはずの世界で、その「信じるもの」を統べていた王が、なぜ?

「革命」

世界史の中で、色鮮やかに原色で彩られ、輝きを放つ事件。

「フランス革命」

2番以降の歌詞は、さながらその様を表しているようにも読み取れる。

暴力の嵐が街を包み込み、人々は王を断頭台に送ろうとする。

栄華を極めた王国も、広大な領土も、もう何もないのだ。

ただ小さな部屋の中で、革命という名の暴力が、襲い掛かってくることを待つことしかできない。

王は脅迫によって王権を捨てさせられ、ただ言われるがままに殺される存在となった。

そんな曲の最後に、もう一度サビが歌いあげられる。

エルサレムの鐘の音。

ローマの聖歌隊の歌声。

忠実なしもべたち。

敬虔な使徒たち。

失われてしまった、歴史上の栄華を極めた数々の王国の象徴が、王の脳裏を掠めていく。

そして、断頭台と、それを取り囲んだ、自らの死を待ち望み、歓声を上げている群衆を前にして、最後にもう一度、王は再び考えるのだ。

「聖ペテロはきっと、私を天国には入れてくれないのだろう」


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