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樹(tatsuki)

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#だから今シャッターを切った 其の四

これから僕が綴るのは、僕の心の中の、何でもない日常の、ほんの1ページ。

カメラを趣味とする僕が、伝えられること。

“本当は、伝えなくても良いこと。”

“なぜ今シャッターを切ったのか”

読み終えたら、TwitterやInstagramで検索してみてください。

写真が載っています。

さて、余談といきましょう。

5月のゴールデンウィークに遊び過ぎた代償か、

ここ1,2ヶ月は仕事で忙しくしている。

休みが削られる事はないけれど、

毎日が残業の日々。

家に帰ったら

ご飯を作って、風呂に入って、

休みの日には

洗濯をして、買い物に行く。

とはいえ、

凝った料理はつくれないし、

洗濯もコインランドリー、

乾燥までお任せだ。

それでも忙しない日々の中、

創作に充てる時間はほとんどない。

自宅のデスクには、

友人から貰った砂時計がある。

ウォルナットの木でできた鯨の背中に、

ガラスの容器と碧い砂鉄。

鯨の背中には磁石が入っていて、

落ちた砂鉄は背中に飛沫の様に積もり、

鯨の潮となる。

ガラスをくるっと返すたび

「よく出来ているなぁ…」と感心する。

もうひとつ感心するのは、”砂時計” そのもの。

「よく表現されているなぁ…」といつも思う。

時間は、刻一刻とは刻まれない。

気が付かないうちに、するすると、

零れ落ちる。

少なくとも僕は、そう感じている。

「大事にしなさい」と与えられる。

目には、見えない砂。

言われた通り、大事に、両手で受け取る。

僕らはガラスの器を持ち合わせていない。

楽しい時には気が緩み、

指の隙間から、

砂はみるみるうちに零れていく。

苦しい時には力が入り、

砂はなかなか零れない。

いっそこの両手を離して、

全て零してしまおうかと思う事だって……。

でも、零れ落ちた砂は奈落の底へ、

もう拾い上げる事は叶わない。

同じ時期に、同じ地域で、

砂を受け取ったあいつ。

学校を辞めて、起業して、

誰よりも我儘なのに、

誰よりも大人に見えたあいつ。

あいつが僕に、手を振っている。

“両手で” 僕に、手を振っている。

「大事にしなさい」と言われ受け取った割に、

器のひとつも用意されず、

残りの量だって見えやしない。

与えられた砂の量すら、

そもそも平等ではないのだろう。

僕らは生まれながらに与えられた。

皮肉にも平等に、

この理不尽を。

なら、どうしようが勝手だろう。

自ら手を離してしまう事すら、

誰にも責める権利などない。

責めていい筈がない。

この世界、

時をかける少女は居ないし、

数奇な運命も存在しない。

12年前のリベンジは出来ないし、

転生してスライムになる事もない。

“俺の知る限り

 時間って奴は止まったり戻ったりはしない

 ただ、前に進むだけだ”

( 不可思議/wonder boy,  pellicule より )

※6/23は不可思議/wonder boyの命日でした。

 ご冥福をお祈りいたします。

僕はもう、

何も考えず、よそ見をして、口を開けて、

知らぬ間に零していくのはごめんだ。

しっかり前を見て、気を張って、

大事に大事に持っていたい。

大好きなことをする時だけ、

大好きなひとと居る時だけ、

この砂を、存分に使っていきたい。

今はまだ、日々淡々と時間を消費している。

友人と作って販売している時計が、

僕の部屋で静かに回り続ける。

作る時、”連続秒針”という、音のしない物を選んだ。

秒針の音は、

砂が零れ落ちるのを知らされているようで、

命を消費しているようで、

なんだか苦手だから。

これがその時計。

《幻景》と名付けたこの時計。

知らされる時間という現実に、

少しでも幻想を。とつくった時計。

あなたの未来が、

夢のあるものでありますように。

暖かくありますように。

どうか諦めてしまわぬように。

あなたのその両手には、

あとどれくらいの砂が残っていますか?

※時計は今も販売しています。

 ご興味のある方はTwitter,Instagramより

 ご連絡ください。

最近は散歩に出かけられていないので、

去年の景色を。

さぁ、散歩に出かけよう。

戻せない筈の時間を戻して。

2021年 6月

カメラを手にして浮かれていた筈の僕は、

早くも暗然としていた。

理由は簡単、

休日のたびに見舞う雨。

元々、雨そのものは嫌いじゃない。

もちろん濡れる事は好きではないが、

その音や空気を感じる時間、

きっと生きている中で一番、冷静になれる。

雨宿りをする数分でもいい、

ベランダに出る数秒でもいい、

目を、閉じてみてほしい。

大地から舞い上がる土や葉の匂い、

火照った世界を撫でる緩い風、

雑音を断ち切る雫の音。

特に好きなのは、

雨どいを伝って垂れる雨。

一定の音を繰り返し、

周期的に違う場所へ跳ね、違う音を奏でる。

それはまるでビートのように心を揺らし、

気持ちの良いリズムが生まれれば笑みが溢れる。

音を楽しむ事が音楽だとするならば、

雨はきっと音楽で、

僕はやっぱり音楽が好きだ。

それでも暗然としていたのは、

せっかく手にしたカメラを使えないから。

そんな休日が続き、やっと訪れた。

天気予報、晴れ。

前日、仕事の最中から浮き足立つ。

どこへ行こうか。

何を撮ろうか。

撮ったら誰に見せようか。

まるで遠足の前の子供のように、

僕の頭は写真の事で飽和していた。

朝起きてカーテンを開ける。

晴れているのは知っているのだ。

それでも確認せずには居られなかった。

すぐに服を着替えて車に飛び乗る。

6月といえど晴れればこの気温、

昨日までの雨の湿気も残っていただろう。

僕の車は随分と古い。

1994年に生産された、

HONDA アコードワゴン CE-1。

今の車と違ってガラスはただのガラス。

UVカットなんてものはなく、

夏場の車内はサウナそのものである。

自分で作ったTシャツが、

湿気と汗で湿るのがわかる。

エンジンをかけて窓を全開に、

タバコに火をつけてシフトをドライブに入れる。

車内の熱気を吹き飛ばすように

発進早々にアクセルを踏み込む。

向かう先は鎌倉。

少し離れたパーキングに車を停めて歩き始める。

久しぶりの晴れ、

光と影ばかりを目で追った。

住宅街を抜ける。

カメラを手にしてさえいれば、

照らす日差しも気にはならなかった。

それでも木陰の続く横道に心は惹かれた。

そこを抜ければ、

何かに出逢える気がした。

不思議な世界へ、

迷い込んでしまえる気がした。

思わずひとつ、シャッターを切った。

目的地まで歩く途中、

カメラを持った人を何人も見かけた。

ひとりで首を右へ左へ。

時々、足を止めてカメラを構える。

「え、それ何撮ってるんですか!」

「うわ〜それ僕も撮りたいけどレンズがなぁ〜」

「あ〜めっちゃいい!その影好きです僕も!」

何度も話しかけた。

心の中で、こっそりと。

僕も彼らもひとりだった。

なのに、独りではないように思えた。

不思議な感覚だった。

自動販売機を見つけ、

思い出したように喉が乾く。

一列に並ぶカラフルなラインナップが、

既に夏を思わせた。

ジュースを買って少し休憩。

目的地の少し前、

申し訳程度に咲くその花を見つめ喉を潤した。

この先にはもっと沢山のそれが咲いている。

それを撮る為に、向かっている。

もう皆さんご存知の通り、

この僕が、待てる筈もない。

またひとつ、シャッターを切った。

いよいよ目的地。

鎌倉、明月院 (めいげついん)

通称、あじさい寺。

入り口で数百円の拝観料を納めて中へ。

白、ピンク、紫、青。

様々なあじさいに皆が釘付けになっている。

三脚とカメラを構えるご老人、

iPhoneで自撮りするカップル、

浴衣を着た外国の方。

誰もが雨続きの日常に耐え、

今ここで笑っている。

皆が、笑っている。

陽の光に照らされて、

彼女も、笑っている。

光輝く彼女に向けて、

またひとつシャッターを切った。

咲き乱れる鮮やかな紫陽花。

中でも心惹かれたのは青い花。

束の間の休息を思わせる、青い花。

鮮やかな青が一際目立つ。

なのに、何故か安心させられる。

雨はまだ少し続くだろう。

それでも今、この時だけは、

君を見て、君と笑って、君を想う。

それだけで素敵だと思えた。

世界はそんなに、悪くないと思えた。

また1年、生きていようと思えた。

紫陽花には、色ごとに違う花言葉がある。

白は、「寛容」

ピンクは、「元気な女性」

青は、「辛抱強い愛情」

耐え忍ぶ雨、久々の晴れ、

休む木陰、また君と会える。

会えたらここで笑い合おう。

僕と君とを繋ぐ青。

だから今、シャッターを切った。

最後の1枚は

#だから今シャッターを切った

で検索してみてください。

それではまた、残したい景色に出会うまで。


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