これから僕が綴るのは、僕の心の中の、何でもない日常の、ほんの1ページ。
カメラを趣味とする僕が、伝えられること。
“本当は、伝えなくても良いこと。”
「なぜ今シャッターを切ったのか」
読み終えたら、TwitterやInstagramで検索してみてください。
写真が載っています。
さぁ。初回なので、少し余談を。
この記事を書くにあたって、何を書くか、何を伝えたいのか、誰に見てほしいのか、どう思ってほしいのか。
自分で思っていたより長考した。
なぜなら、
言葉には、力があると思う。
表現には色々な方法がある。
写真を見た時、その景色に飛び込んで、心が奪われる。
話す声や言葉を聞いた時、その落ち着きや熱さに、心を動かされる。
僕が何かを発信するならば、その2つの方が得意だろう。
今までもそうして来たし、これからもきっと続けていくんだろうとも思っている。
ほんのひとつまみ程度の、自信もある。
なので、僕に記事を書いてみないかと、文字で表現しないかと、持ちかけたやつの気が知れない。
だからこそ、嬉しかった。
言葉には、力があると思う。
インターネットで出会った友人に、素敵な詩を書く人がいる。
彼女の書く詩はとても静かで、澄んでいて、氷のような、硝子のような、まるで透明を形にしたような、そんな美しさがある。
僕は美しいものに触れた時、深い深いため息が出る。
生活の中でなんと無しに行う呼吸、落ち着きを取り戻すために意図的に行う深呼吸、そのどちらでもない、自然とこぼれる深い息。
ため息を吐いたその口から次の空気を吸う瞬間、心の奥に触れられるような。
自分でも触れられない、触れたことがない部分を、そっと優しく撫でられるような。
そんな気持ちになることがある。
彼女の詩を読み解く時、いつも強く思う。
言葉には、力があると思う。
高校生の頃、仲良くもないしクラスも違う、たまたま1つの授業で隣り合わせになっただけの同級生。
生真面目で真っ直ぐで臆病な性格の彼と、一度だけ、好きな音楽について語ったことがある。
当時から色々な曲を聞き漁っていた僕は、彼の好きなアーティストを知っていた。
悲しみや苦しみを様々な言葉で、音で、回りくどくも、熱く熱く届けるアーティストだった。
珍しく熱く語る彼は「この人の言葉に救われるんだ。この人は寄り添ってくれるんだ。」と声を大にした。
彼が周りに注目されるほど大きな声で話すのを見たのは、この一回きりだった。
言葉には、力があると思う。
そのアーティストが死をテーマにした新譜を出した、ほんの数日後、全校集会が開かれた。
言葉には、良くも悪くも、力があると思う。
何を動かすにも力が必要で、それは心も同じで。
いくら力を込めても、まだまだ抜けないと思っていたカブは、ある時突然抜けるのだ。
言葉は、力だ。
詰まるところ、さっき何気なく呟いたツイートも、昨日の夜きみと交わした他愛もない会話も、今画面と睨めっこしながら綴るこの記事も、少なからず誰かの心を、もっと言えば人生を、恐ろしくも、命を、左右する可能性があるということ。
その上で、僕が伝えられること。
だから選んだ、”本当は伝えなくても良いこと。”
何気ない日常に潜む、ほんの少しの暖かさを。
写真だけでは伝えきれない想いを。
ここに残します。
いつか薄れて消えてしまう前に。
ここまで一心不乱に言葉を紡いで、ふと気付く。
少しと始めた余談に、全体の⅓を費やしたということ。
熱量に関しては、ほとんど費やしてしまったということ。
ご覧の通りの乏しい語彙で、この先どんな記事が書けるのか、ぜひ楽しみにしていてほしい。
「 #だから今シャッターを切った 」
この日は、写真を撮る日と決めていた。
カメラを始めたのが5月。
それから数ヶ月、少なくとも週に一度は写真を撮りにでかけていた。
出会う景色すべてが新鮮だった。
見たことのある海も、よく行く喫茶店も、通い慣れた職場も、もう他人の家のにおいがする実家も、ファインダーを通すだけで全く別の世界に見えた。
ワクワクが止まらなかった。
カメラを始めて半年が経ち、色々なことに追われる中で、徐々にその機会は減っていった。
飽和とまでは言わずとも、前ほど心踊る瞬間に出会えなかった。
12月、忙しさと、薄れていく人との繋がりと、自分の無能さ、醜悪さに、心を蝕まれた月だった。
抗う心を尻目に、身体だけは淡々と動かし続けた。
ファインダーを覗く暇もなく、様々な事に不安や憤りを感じたまま、迎えた年末。
実家に帰る間だけ、たっぷりと休息をとった。
作業の手を止め、創作の手を止め、人との繋がりを忘れた。
なんとも心地がよかった。
実家には、僕を責める人はいない。
26歳にもなって身も固めず、好き勝手に生き、未だに夢を語るような、ばかな息子。
母は言う。
「こんな私から生まれて育ったのに、色々考えてるのねぇ。」と。
“カエルの子はカエル”とはよく言ったもので、
ばか息子の親は、親ばかなのだ。
年が明け、初詣を済ませ、
ぬるま湯を出て、一人暮らしの家へ。
ひどく寒かったのを覚えている。
この日は、写真を撮る日と決めていた。
1月某日。
創作のため、海や太陽の光を求めて、湘南へ。
海から少し離れたところに車を停め、ポケットに財布と携帯、肩からカメラをさげて出発。
不覚にもタバコを忘れた。
しばらく海沿いを散策するが、惹かれるものも特になく、冷たい風が頬を撫でるだけの時間が進む。
辺りを見渡したくて歩道橋へ登る。
駅や実家や会社、日々無意識で階段を登っているが、唯一、歩道橋へ登る時だけ、少しスキップ気味になるのは僕だけだろうか。
登ってすぐに降りたくなる。
さっきまで撫でていたはずの風が牙を剥く。
真正面から風を受け、伸びた髪は全て拐われ、道行く人に雄ライオンと間違われないか心配になる。
まぁライオンにしては随分と情けない顔をしていただろう。
降りる階段を見つけて歩き出すと、その先に小さなライオンを見つける。
近寄って撫でるとゴロゴロと喉を鳴らし満足気な顔をした。
と思うのも束の間、彼か彼女か、とにかくそいつは、スッと立ち上がり海沿いの歩道を歩いていく。
なんとなく後をつけると、用がなければ存在にも気が付かなそうな車一台分の小道にそれる。
両側には草が生い茂ったまま、壁にはスプレーの落書き。
何度見ても僕には「Dondake!!」としか読むことができず、”多分書いたのはIKKOだ”ということにした。
「Dandelion」とでも書いてあれば良いオチになったものを。
小さなライオンは古びた小屋と壁の隙間へ消えていった。
おかしなことを考え始めていたのだから、もう心は踊っていたのだと思う。
野良猫を諦めそのまま道なりに進むと、見えてきたのは小さなゴルフの練習場。
休日のおじさま達が打ちっぱなしで気持ちよさそうにネットへ球を打つ。
ネットの先には海が見えた。
練習場の入り口付近に梅の花。
こちらは寒さに震え、風から身を守っているというのに、そこに射す光だけは暖かいように感じた。
ほとんどが塞ぎ込んだままだったが、春を待てない幾つかが、小さく、まだ控えめに、花を咲かせていた。
思わずひとつシャッターを切った。

緑色のネットの脇を抜け、行き止まりのところまで来ると、防波堤にたどり着く。
奥まっているからだろうか、波は静かで、どこが穏やかで、一段降りるとさっきまでの寒さが嘘のようだった。
風はここまで辿り着けない。
キラキラと輝く水面の側で、負けじと光る金色の
それをしばらく眺めていた。
腰をおろして5分ほど経った頃、やっと気が付く。
見頃じゃない。
すぐに気が付くような事だった。
気が付かないほど綺麗だった。
太陽に照らされたそれは確かに美しく、神々しく、生き生きとして見えた。
あれは枯れ芒(すすき)だ。
地表で僅かに揺れる金色の部分は、もう死んでいるのだ。
またひとつシャッターを切った。

神奈川には、特に海沿いには、ほとんど雪が積もらない。
写真に映えるようなキラキラとした冬を見つけられる事はあまりない。
でも確かにここには冬があった。
太陽に照らされ、死んでもなお輝く秋と、
ほんの少しの暖かさに、思わず駆け出す春、
その狭間に。
どの季節が好きかと聞かれたとき、僕はいつも秋と答える。
次に、と聞かれれば春と答えるだろう。
気温も、期待も、寂しさも、どれをとっても丁度良い。
その短さも、求めてしまう理由になる。
この日、冬を見直した。
秋と春の、間の時間。
移り変わりを、楽しむ時間。
芒に飽きて見上げると、輝きもしない、鮮やかでもない、ただの枯れ木が目に入る。
彼を、愛そうと思った。
枯れても、愛そうと思った。
だから今、シャッターを切った。
最後の1枚は
#だから今シャッターを切った
で見てみてください。
それではまた、残したい景色に出会うまで。
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